三杯目にはそっと出し

 さて、前回は、ブルーノ・ラトゥール「虚構の近代 科学人類学は警告する」(川村久美子訳、新評論、2008)を読みながら、自然法則と社会構成みたいなんを綺麗に二分させ、その両者の間で犬も食わない喧嘩をしているように見せながら、その実相補的に機能させるという現状はありなんかいな、というところを考えるヒントを探してみることにしようと思っていたのでした。

 近代、ラトゥールはそれを、純化のプロセスによって表向きは彩られるものと考えます。このプロセスによって、存在論的に独立した領域、人間と非人間の領域が生みだされると。ちょっと分かりづらいかもしれないので、ラトゥールの言葉を引用しましょう。「純化の働きはそうした現象を、外界に客観的に存在する「自然」、予測可能な利害と関心が渦巻く「社会」、そして参照対象や社会から独立した「言説」の三つに整然と切り分ける。」(27)

 しかし、それは表向き。そこにはもうひとつの実践が裏打ちされているのだとラトゥールはいいます。その実践は翻訳と呼ばれるものです。これがネットワークと呼ばれるプロセスに対応するもので、この実践によってハイブリッドが作り出される、と。ハイブリッド?なんのこっちゃ、とおもいますが、「翻訳の働きは、例えば大気上層の化学作用を、科学、産業界の戦略、国家首脳の心痛、生態学者の気掛かりなどを一つの鎖で繋ぐ。」(27)といわれると、まあなんとなくわかったようなわからんような。

 ん?でも、それがなんだっつうの?という感がなくもありませんが、いまは詳細はおいて、まず問題設定を押さえておきましょう。翻訳と純化、それらを別個のものと考えることで、近代論が唱える事業は進んでいきます。しかし、このふたつを二分化し、一方を廃棄しているつもりのなったそのことで、その実この両者を混交させたハイブリッドを増殖させている。しかし、近代構築の事業を支えているのはむしろそのことなのだ、こうした構造の実践を持つとき、そのときわれわれは近代人なのだ、と。つまり、本書の問いは、

(1)まず翻訳と純化というふたつの働きのつながりは、「第二の実践が第一の実践を可能にしている」と仮説立てることができる。
(2)西洋以外の文化はハイブリッドに注意を向けることでその増殖を抑えており、それが異文化と西洋の埋めがたい溝を説明する。
(3)ハイブリッドの存在を公式に認めることで怪物の増殖を遅らせ、生産を制御し、発展方向を変えることができる。

というものだとラトゥールは提起します。


 とはいえ、この翻訳だのネットワークだの言う言葉、いきなり言われても雲をつかむような話。翻訳に関しては、以前ラトゥールの別の本を取り上げたときにお話ししましたから、今回はネットワークからいってみましょう。

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kinky?

 さて、精神療法の業界でも、一昔前、トラウマの現実性をめぐっていろんな議論があったことはよく知られています。
 一方ではそれは紛う方なき現実であると断じ、他方はインチキ学問にとちくるったカウンセラーに吹き込まれた物語を信じ込んでるだけだと断じ、それはまあたいそうな争いになったものでした。まあ100年前にも似たような議論が流行していたとか、そういうことはさておいて、ここにある背景の構造はなんでしょう?

 一方には、病気は人間がかかるものであり、人間は自然の一部であり、自然の一部であるからには自然法則に従うはずであり、自然法則は人間の意志や意図とは無関係に働くものである、という考え方があります。そりゃそうです。わたくしが念じても地球の回転は止まらない。祈っても病気は治らない。しかしもっと大事なのは、主体の意図が入らない証言であればあるほど、信憑性は高い、というよりそれこそが現実だ、という考え方です。この考え方に従うなら、トラウマは、ある一定以上のストレスが掛かればある程度の個体差はあれ誰でも異常反応を起こす、ということになります。逆に、その一定以上のストレスの存在が認められないのであれば、その症状の存在そのものが疑わしいものになってきます。詐病?わがまま?気合いが足りない?

 ということは、その相方は、とても敵対しているように見えてかれらとは実は仲の良い一幅対であることが分かります。その名も構成主義。社会的現実とは、人間の手によって構成されたものである、という考え方です。この考え方にしたがえば、トラウマの現実性というのはさほど問題になりません。問題は何らかの事実をどのようにその主体が構成したのか、そしてその構成の仕方をより良い方向に向けていけば、病は解消するはず。
 などといってしまうのは、構成主義的な見地から心理療法を行っている方から見れば許し難いほどの単純化で、実際の臨床がそんなおおざっぱな概念のもと動いていくわけもないのですが、ここはとりあえず。そうすると、バビンスキーの説得療法から現代の認知行動療法に至るまで、大きく言えば論理的ないし合理的な判断へとクライアントを導いていくことをゴールにするものも、あるいは構成主義のようにそこに他者の承認と共感といったファクターを含めるものも、まとめてグループ化できるから、というだけのための理由で選ばれた、ちょっと大きすぎる枠組みだと思ってください。

 ともあれ、ここにあるのは、一方では自然法則は超越的であり、われわれはそれを発見し利用することはできてもそれを構成することはない、という信念であり、他方ではそれと対になって、社会に関してはわれわれは大きなコントロール能力を持っていて、それをかなりの自由度を持って構成できるという信念です。

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6をひっくり返すと9になる

 さて、それでは、今回もピエール・マシュレ「ヘーゲルスピノザか」(鈴木一策、桑田禮彰訳、新評論、1986)から、さいごの第四章、「すべての規定は否定である」を見ていくことにしましょう。

 ヘーゲルにとって、否定とはなんでしょう?

 プロレスの必殺技、翼君ならドライブ・シュートみたいな、ヘーゲルにとっての「否定」ですが、ほな、そげんすごか技と?という疑念が湧いてきます。
 まず、規定されたものは否定を含んでおり、何かあるものはこの否定を媒介にして措定されうるのであるから、それは単なる欠如ではなく現実存在を生みだすものである(163)ということが前提としてあげられます。ここまでは、規定は否定、というはなしをこれまで何回かしてきた中でご説明したとおり。しかし、それだけではありません。そういう力を持つことで、否定とは中間項・媒介・媒介作用としても機能することが分かります。その機能によって、他なるものへと導くことで形式的で空虚な同一性を躓かせ、この同一性を変質させなければ現実的内容は存在しないということを示す(164)というのです。だから、始源の一者のなかには、たんに空虚に自己肯定するだけではなく、なにか否定的なものの萌芽があり、それが現実的存在を産み落とすことにつながります。
 でも、それだけではまだ甘い。そこでヘーゲルせんせいがさらに必殺技として繰り出すのが、否定の否定です。キンニクドライバーがキンニクバスターで横にすると無限大とかなんとかかんとか。いや、関ジャニ∞じゃなくて。あれ?なんか勘違いしている?

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好きなものリスト

 きわめてしばしば悩まされる疑問、「わたしのどこがすき?」という例のアレ、ありますね。
 このとき、どの個別的条件を挙げても(顔が可愛い、胸が大きい、肌が綺麗ほかもろもろ)怒られる、というのは、みなさまご経験されているとおり。ジジェクが、個別的条件のリストを満たせば恋愛対象になるっちゅうのばパトロジカルなナルシシズムなんちゃうの?とゆってたことも、一部の皆さんにはご存じの通り。
 しかし、もう一つの逃げ道、君の全てが好きだよとか、その手が通用するわけでもない、ということも、これまた皆様ご存じの通り。同じように、何がして欲しいの?というリクエストに対して、居てくれるだけで良いよという手が通用しないことも、これまたご存じの通り。

 ジジェクが言うように、これがヒステリーの「〜でないことの欲望」とするか、あるいはそのヴァリエーションとして、「欲望されることそのものへの恐怖」という強迫神経症的な去勢恐怖と考えるなら、それはそれで仕方のないこと、と諦めてもいいわけですが、それにしてもあなたの隣にいるひとが、「〜でないもの」としてか、あるいは何ら実質的な規定を欠いたものでしかない「存在そのもの」としてしか規定されないというのは、いささか貧しい話っちゃ貧しい話です。たしかに、あなたの隣人の中に「全て」あるいは「永遠」を感じることがあったって良いはずですし(おおむね錯覚ですが)、それが隣人の具体的な個別性をいっさい否定しないものであってもいいはずなのですが、この両方はどういう訳か両立せず、かつどっちを言っても怒られるというこの難しさ。

 今日の話は、もしかしたらその辺に対する、ささやかな救済案へ通じるかもしれないのですが、具体的道筋とまではいきません。というか、具体的にそれを論じはしませんが、でもまあ、そんなことも念頭におきつつ、ピエール・マシュレ「ヘーゲルスピノザか」(鈴木一策、桑田禮彰訳、新評論、1986)の第三章、「属性の問題」を扱っていくことにしましょう。でもなんで属性?てか属性って何?ツンデレ属性とかメイド属性とかそういう奴?っていうかなんで世の中はエロゲからmixiに至るまでキャラ=属性なの?と、果てしなく疑問は広がっていきますが、それはさておくとして、正気に戻って属性。

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調子のいい鍛冶屋

 といえば、ヘンデルの名曲。戦前の録音には多く見かける人気曲ですが、いまはどうでしょう?ピアノのお稽古用の教材では、今でも使われているんでしょうか、と聞いたら、ピアノ弾きの友人曰く「あれ結構難しいんだよ」。いわれてみると、まあそうかもしれない。

 まあそんなわけで、前回から、ピエール・マシュレ「ヘーゲルスピノザか」(鈴木一策、桑田禮彰訳、新評論、1986)をあつかっているわけでございますが、今日はその第二章、「幾何学的方法」から。前回同様今回も、この章題にもかかわらず、実質はふたりにとって真理とは何か、という問題を中心にしている、ということは、最初に触れておきましょう。あらかじめ簡単に種明かしとなる部分を紹介しておけば、こういうことになります。真理の問題において、スピノザヘーゲルはもっとも接近したように思われる。ところが、おかしなことにまさにその問題に関して、ヘーゲルスピノザをもっとも激しく論難している。でもよくよく見てみると、その論難で使われている文句は、じつはスピノザデカルト主義者たちに反対して展開した議論とよく似通っている。ということは、スピノザヘーゲルの非難に前もって答えていたことにならないか。それどころか、ヘーゲルスピノザの中に発見したと称する不完全さとは、じつはヘーゲル以上にラディカルであったスピノザ主義の急進性に耐えかねたヘーゲルによる、ある種の引き戻し作業という徴候を見て取るべきではなかろうか、と。(107-108)

 ということは、まずは手っ取り早く問題のイメージをつかんでもらうために、ちょっと長いですがスピノザ本人の一節を引用しましょう。

「鉄を鍛えるためにはハンマーが必要であり、ハンマーを手に入れるためにはそれを作らねばならず、そのためには他のハンマーと他の道具が必要であり、これを有するためにはまた他の道具を要し、このようにして無限に進む。しかしこうした仕方で、人間に鉄を鍛える力がないことを証明しようとしても無駄であろう。事実、人間は、最初には生得の道具を得て、若干のきわめて平易なものを、骨折ってかつ不完全にではあったが作ることができた。そしてそれを作り上げてのち、彼らは他の比較的むずかしいものを、比較的少ない骨折りで比較的完全に作り上げた。こうして次第にもっとも簡単な仕事から道具へ、さらにこの道具から他の仕事と道具へと進んで、彼らはついにあんなに多くの、かつあんなにむずかしいことを、わずかな骨折りで成就するようになった。それと同様に、知性もまた生得の力をもって、自らのために知的道具を作り、これから他の知的行動を果たす新しい力を得、さらにこれらの行動から新しい道具すなわち一層探求を進める能力を得、こうして次第に進んでついには英知の最高峰に達するようになるのである。」(「知性改善論」29頁)

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夏の終わり

 わたくしの住む小さな町では、とあるお祭りが終わるともう秋の始まり、とじいさまばあさまがたがよく話しています。

 まあお年寄りの言うことは聞くもので、季節は一気に秋。今年の夏もああ、何もしなかったわ、という森高千里の名曲が頭の中を駆けめぐりそうな今日この頃ですが、ここは何食わぬ顔で、好評の(なんてことはちっとも無い)スピノザ・シリーズから、ピエール・マシュレ「ヘーゲルスピノザか」(鈴木一策、桑田禮彰訳、新評論、1986)を取り上げましょう。

スピノザが近代哲学の中心に位置するのはたしかで、スピノザ主義にあらずんば哲学にあらず、といった観があります。」(「ヘーゲル哲学史講義」下巻(長谷川宏訳、河出書房新社)、245頁)とヘーゲルが述べていたことは、よく知られています。あらゆることに口を出したヘーゲル先生が、スピノザに口を出していないわけがなく、スピノザにたいする言及はその浩瀚な著作体系のはしばしに見出すことができます。というよりは、シェリングヘルダーリンヘーゲルという3人の巨人がともに過ごした青春の(この時期をモデルに少女漫画を書いたら絶対いいのが書けると思うのですが)、まさに中心的トピックの一つであったとさえいうことができる位置を、スピノザは占めています。じっさい、ヘーゲルシェリングに向けたわるぐちとスピノザにあてたわるぐちとは、言い回しが多くの面で共通します。(マシュレはシェリングについてはほぼ触れていませんが)。つまるところ、スピノザは、それを受容したシェリングはじめドイツの同時代の哲学の一つの象徴であり、それを乗り越えることがヘーゲルの任務でした。まあ、ヘーゲルが星野鉄觔ならスピノザメーテルみたいなもんです。青春の幻影。(いやそれはあっているのか?)

 マシュレの著作の意図は、とってもはっきりしています。まず、マシュレはこう述べます。

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7 叡智から自由な共和国へ

 「われわれは自分が永遠であると感じ、またそれを経験する」(第五部定理23備考)

 この言明の意味を考えるところから、この最後の「道程」は始まります。ちなみにこのすぐ後ろが「精神の目は論証そのもの」という上野先生の著書の題名の出展だったりする。うん、やっぱり大事な箇所なのでしょうね。

 とはいえ、クリストフォリーニさんの面白いところは、これを理解すれば人間共同体内部、そしてそれを貫くスピノザ的賢者の道に従うことが出来るだろう、と述べているところです。あくまで、人間共同体というフィールドが中心なのであって、ひとり静かに神に酔えるもの、ということではないようなのですね。たしかに、この同時期そしてそれ以降の時期に、『神学政治論』そして『国家論』が書かれていることを忘れてはなりません。

 この「永遠感情」は二重かつ非宗教的な読解の鍵だとクリストフォリーニさんはいいます。なんのこっちゃ。いや、説明を聞きましょう。まず第一に、永遠と呼ばれるものはわれわれの本質ないし本性であり、われわれ個々人の生のサイクルの持続とは関係のない科学的法則としてのそれであるはずです。第二に、スピノザが永遠性を云々するときには、そして人間を論じるときには、主語はわれわれであってわたしではありません。つまり、普遍的な人間共同体がそれ固有の永遠性を経験し感じるのだ、とクリストフォリーニさん。なんかちょっと証明としては強引な気もしますが、まあ、とりあえずいいたいことはわかた、という。

 個体性っつうのは関係のネットワークであり、そして人間の個体性つまり個人性というのは、その人間が理性にしたがって生きているのであれば、その身体を超えて広がっている諸関係のネットワークを統御できればできるほど、強められていくことになるはずです。そして、賢者は、人間の個体性の全体にまで潜在的に広がりうる個体性をもちうることになるはずです。ここは、おそらくクリストフォリーニさんの指摘のなかで、もっとも印象的な一節のひとつでしょう。

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