声カタマリン

さて、というわけで、ルセルクルさんの「言葉の暴力」。 この本の少々難しいところは、やはり言葉の暴力というその暴力の性格と対象が多様すぎる点にあることでしょう。もちろん、我々が日常でよく知っているような「言葉によって情動が喚起され、その情動は…

よけいなもの=あまりもの?

2008年12月24日 ひとには、使命というものがあります。 人生でなんらひとさまに責任を負わず、なんら約束をせず、ひとさまが居ようが居まいが行い続けるであろう信念ある行動にもモラルある振る舞いにも乏しいわたくしではございますが、この日にきっちり更…

逃走するキノコたち

さて、またしてもちょっと間が空いてしまいました。 もう何をやっていたか忘れそうですが、いちおうわれわれがやっていたのは、レオ・シュトラウス「ホッブズの政治学」(添谷育志、谷喬夫、飯島昇藏訳、みすず書房、1990)。うん、いくらお金があっても、覇権…

牛に願いを

近江牛に釣られて急ぎの仕事を引き受けてしまったので、すっかり間が空いてしまいました。 怒濤の貧困生活が災いして、タンパク質不足が続いていますから、うん、そりゃ意志は強くても牛には弱くてもしかなたいよね、とひきうけたは良いですがこれが結構難物…

賢者の石

というわけで、前回は「イギリス哲学で読む『星の王子さま』」なるインチキな小ネタをマクラに、そのままレオ・シュトラウス「ホッブズの政治学」(添谷育志、谷喬夫、飯島昇藏訳、みすず書房、1990)になだれ込んだわけでした。 この書物での、レオ・シュトラ…

マタンゴ

「いくら頭が良くったって、可愛くたって、キノコ人間じゃあねぇ」 (筋肉少女隊『マタンゴ』)「ゼニ勘定のほかすることない。おまけに毎日毎日ぼくはぁ〜カタギの男だからなぁ〜カタギの!ってそればっか。でもそんなん人間ちゃうで。おんどれキノコや。」 …

イタチ on the run?

さて、ここ二回ほど、ブルーノ・ラトゥール「虚構の近代 科学人類学は警告する」(川村久美子訳、新評論、2008)を読みすすめて来たわけでございます。 セールのこの「準-客体の理論」の節は、それ自体とくにラカニアン的にも多くの示唆を与えてくれる箇所です…

三杯目にはそっと出し

さて、前回は、ブルーノ・ラトゥール「虚構の近代 科学人類学は警告する」(川村久美子訳、新評論、2008)を読みながら、自然法則と社会構成みたいなんを綺麗に二分させ、その両者の間で犬も食わない喧嘩をしているように見せながら、その実相補的に機能させる…

kinky?

さて、精神療法の業界でも、一昔前、トラウマの現実性をめぐっていろんな議論があったことはよく知られています。 一方ではそれは紛う方なき現実であると断じ、他方はインチキ学問にとちくるったカウンセラーに吹き込まれた物語を信じ込んでるだけだと断じ、…

6をひっくり返すと9になる

さて、それでは、今回もピエール・マシュレ「ヘーゲルかスピノザか」(鈴木一策、桑田禮彰訳、新評論、1986)から、さいごの第四章、「すべての規定は否定である」を見ていくことにしましょう。 ヘーゲルにとって、否定とはなんでしょう? プロレスの必殺技、…

好きなものリスト

きわめてしばしば悩まされる疑問、「わたしのどこがすき?」という例のアレ、ありますね。 このとき、どの個別的条件を挙げても(顔が可愛い、胸が大きい、肌が綺麗ほかもろもろ)怒られる、というのは、みなさまご経験されているとおり。ジジェクが、個別的条…

調子のいい鍛冶屋

といえば、ヘンデルの名曲。戦前の録音には多く見かける人気曲ですが、いまはどうでしょう?ピアノのお稽古用の教材では、今でも使われているんでしょうか、と聞いたら、ピアノ弾きの友人曰く「あれ結構難しいんだよ」。いわれてみると、まあそうかもしれな…

夏の終わり

わたくしの住む小さな町では、とあるお祭りが終わるともう秋の始まり、とじいさまばあさまがたがよく話しています。 まあお年寄りの言うことは聞くもので、季節は一気に秋。今年の夏もああ、何もしなかったわ、という森高千里の名曲が頭の中を駆けめぐりそう…

7 叡智から自由な共和国へ

「われわれは自分が永遠であると感じ、またそれを経験する」(第五部定理23備考) この言明の意味を考えるところから、この最後の「道程」は始まります。ちなみにこのすぐ後ろが「精神の目は論証そのもの」という上野先生の著書の題名の出展だったりする。うん…

6 情念から知的愛へ

ここまでの『道程』で、われわれは自由な人間の形成、すなわちいかにして人は賢くなるかを見てきた、と、クリストフォリーニさんはいいます。とはいえ、自由と賢いこととはいっしょとはかぎらない。ほな、このふたつの語が相互にかつ必然的に含意するところ…

5 神の属性から人間の本質へ

というわけで、前回は第二種の認識、第三種の認識について話をしてきたのでした。今回は、じゃあそれはどのように使われるものなのか、というところから話を始めよう、と、クリストフォリーニさんはいいます。それは第三部、人間の感情ないし情念について論…

4 想像力から学知へ

さて、ほかの「道程」とちがって、この第四の道程はとっても短く、一部の例外を除いてほぼ『エチカ』第二部定理40備考2に絞ってお送りします、と、クリストフォリーニさん。見事な割り切り具合です。 というわけで、浅学非才の身としては、まずはてっとりば…

3 身体から想像力の力能へ

今回、この想像力の議論を以て、クリストフォリーニさんの議論はその真骨頂の一端を示してくれることになります。こうした「スピノザにおける想像力の称揚」という議論は、同郷の先輩ネグリ以来で、もしかしてイタリアの伝統なのかしら、と思ってしまうくら…

2 無限から有限へ

さて、前回は、スピノザの構成主義、とでもいうべきまとめで、ちょっと強引に『エチカ』のある種の欠点を救ってみようと試みたクリストフォリーニさんの見解をまとめてみたのでした。それを、わたくしは「最初の簡単な道具と、その展開、あるいはその持つ構…

1 知性(知的認識)から定義へ

「鉄を鍛えるためにはハンマーが必要であり、ハンマーを手に入れるためにはそれを作らねばならず、そのためには他のハンマーと他の道具が必要であり、これを有するためにはまた他の道具を要し、このようにして無限に進む。しかしこうした仕方で、人間に鉄を…

証城寺の屋上

「この熱情を支配し、自然の支配と、自然に対する人間の力の拡大に向かって努力する賢者、彼にとって、この世界が罪の泥濘ではなく、己れの活動の場所として存在し、更に又、己れの力の享受と発展のために存在するところの賢者---この賢者は、物理的世界を己…

光あれ

と神はいった、最初にいった、ということに、なっています。 神は何を言ったのでしょう?光あれといった、すると見よ、そこに光があった。うん、明るい。明るいナショナルみんなのナショナル(またしても古い)。 このとき、神は命じるものであり、文字通りの…

 照らすアスファルト

さて、前回は、媒介的なものと無媒介的なもの、というアイディアをカール・シュミットが掲げていたこと、そして自身は媒介の弁護士と名乗りながら、ひそかに無媒介的なものを支持する、いってみれば隠れロマン派としてのシュミット、という一面を紹介しつつ…

輝くnorthern lights

ことしも新茶の季節。 近所の神社のお祭りが終わって、新茶が出始めると、すっかり初夏の気分です。 それなりにちゃんとしたお茶を飲んでいるつもりでも、この時分、新茶をあけるときだけは、いままでなんてがさつなものを飲んでいたのだろう、という気にな…

ゴーヤーチャンプルー

さて、そんなわけで、前回はファルスは0か-1かという、恐ろしくどうでも良さそうなネタをマクラに、でもそれが意外にいろんな波及をもたらしてるかもしれない、というあたりをふれてきました。空虚のシニフィアンから享楽のシニフィアンヘ、そしてそれによっ…

指輪をよこせ

借りるだけだ、ってそれはボロミア。 まあ、毎回芸のない同じ様な出だしなのはともかくとして、右っかわにあるのはラカンのボロメオの環。 この図式は三つの輪から構成される:現実界R、象徴界S、想像界I 三つの輪の交点は、それぞれ象徴界と想像界に意味が…

動的不均衡?

さて、前回は上野修「意味と出来事と永遠と−−−ドゥルーズ『意味の論理学』から」「ドゥルーズ/ガタリの現在」小泉義之、鈴木泉、檜垣立哉編、平凡社、2008、p. 20-40)から、ドゥルーズの「アイオーン」について、まとめをしたのでした。いちおう、前回の最後…

アイオーン

「ほざけ、人の子が」ってそれはアリオン。 などとお年寄りにしかわからないネタはさておくとして、上野修「意味と出来事と永遠と−−−ドゥルーズ『意味の論理学』から」「ドゥルーズ/ガタリの現在」小泉義之、鈴木泉、檜垣立哉編、平凡社、2008、p. 20-40)、…

花冷え

さて、花冷えよりも冷え冷えとするような、なにかと後ろ暗くほの暗く、そしてまたもの悲しくもみっともない話題の(ごく局地的に)続いた昨今ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか。って言ってる端からTVではイギリス人どもが威風堂々に合わせてスクワット…

らららポンセ

さて、前回はフロイトの「大洋感情」をテーマにしながら、その拒絶の背景には、自我の形成過程あるいは個体発生にとどまらないなにがしかの歴史的変化があり、それによってわれわれは、「バラ色の光」のなかでは息もできない哀れな魚になってしまったのでは…