身体なき器官なき身体なき・・・(1)

 残念ながらまだ刊行されていない講義録のなかで、ラカンドゥルーズに触れた機会が二度ほどあります。一度は1967年4月19日。ドゥルーズの『マゾッホとサド』に関する非常に好意的な論評です。「しかし驚くべきことではないかと思うのは、こうしたテクストが本当の意味で、私が今実際に、今年切り開いた途上でいうべきことをすでに先取りしているということです。」もう一度は1969年3月12日。今度は『意味の論理学』に関するコメントです。ここでは若干の見解の相違点を指摘しつつも、こんな指摘を。


「喜んで労を払おうという方なら、この《他者》のレベルに、ドゥルーズの本の中では出来事、上演と題され、呼ばれているものを位置づけることが出来るでしょう。これは厳密さと尊敬すべき正確さでもって、判明に、それも現代論理学思考が定義しうるものすべてとも調和を保っています。あるいは、ランガージュの存在と結びついたあらゆるパレードと呼んでもいいかもしれません。ここにこそ、《他者》の中にこそ、無意識は一つのランガージュとして構造化されているのです。」

 ついでにいえば、この翌週3月19日の講義では、ジャック・ナシフが『意味の論理学』のレジュメを発表しています。

 まあそんなわけで、『批評空間』1996年春号でドゥルーズが、『アンチ・オイディプス』発表後の数ヶ月後のラカンとの思い出話のなかで「ラカンは、ミレールを除くあらゆる弟子の悪口を言ったあげく、『私に必要なのは君のような人だ』」と言った」というのも、まあそういうことあったろうなあ、という気もするのです。すくなくともドゥルーズ側がこういうネタを吹聴する必要もなさそうですから。

 ですから、ラカンドゥルーズ=ガタリとか、そういう思想地政学みたいな話はもうちょっと丁寧にやったほうが面白いだろうになあ、という気持ちはいつもあったのですが、今回その辺に関する非常に重要な著作が翻訳されました。おおむねみなさん察しのついているとおり、スラヴォイ・ジジェク『身体なき器官』です。翻訳は長原豊。ちょっと癖があるので読解に原書が手放せないのは、まあ仕方のないことではあるのですが(見慣れない聞き慣れない訳語だといっても、十分にその意図が理解してみる努力は必要でしょう)たとえばどうでもいい箇所ですと「入手可能」="available"が「利用可能」(音楽CDの話ですから)とか、多少大事な部分では、部分対象の"autonomization"が自動化(訳書320頁)とか、訳者が[]で補った前後の文章とどうしてもそぐわないとか、そういうのはどうでしょうか。。。でも、気合いの入った訳であることは確かです。

 ともあれ、題名からしてあからさまに挑戦的なこの著作。賭けても良いですが「『アンチ・オイディプス』は単純化された平滑的解決を介してその行き詰まりとの全面的対峙から逃亡した帰結の、ドゥルーズの作品にあって最悪のもの」(49)ってとこがまずスキャンダラスに取り上げられ、「ドゥルーズ−フェリックス・ガタリとともに書いたいくつかの著作の読解にもとづいたドゥルーズについての大衆的イメージ」(11)から哲学者ドゥルーズを取り戻す!具体的には(ラカンが高く評価した)『意味の論理学』のドゥルーズを『アンチ・オイディプス』から取り戻す、という風に紹介されてしまうのであろうなあ、と思われます。

 まあ、ジジェク本人もそういっているのだからいいじゃん、という気もしないでもないのですが、第一にジジェクがここに見いだそうとした「行き詰まり」は、ドイツ観念論の伝統の中にきちんと還元された正統的なテーマですし、第二に実践的にもいわゆる「マルチチュード」に代わる「革命的主体性の新たな形象化」(12)が意図されている、ということを踏まえておかねばアンフェアでしょう。

 残念ながら後者に関してはあまり自信のあるテーマではありません。ですので、今回は前者の境界線ないしは行き詰まりをフォローして行き、その過程で後者に関する示唆が伺えるところまでいければいいなあ、と思いつつ、ノートを作ってみましょう。

 ドゥルーズの議論の枠組みを、ジジェクは「現勢的なものと潜勢的なもの」とに区分します。一方で触発的情動の脱実体化があり、それはもはや実際の人格に帰せられるのではなく、自由に浮遊する出来事へと生成しているものです。ジジェクは、ドゥルーズのその「潜勢的なもの」の着想の起源を後期フィヒテに求めています。自己措定という絶対的過程を主客の対の彼方にあるひとつの生の流れとして考えようとした後期フィヒテとの関連性を。このへん、フィヒテも再読してみなければなりません。
 なぜそれがジジェクにとって大事なのでしょう?それはたとえば、後期ラカンのサントームという概念が「触発-情動的な強度の痕跡が連続的に叢生する様」(21)として想定されているから、です。これはララングという文脈に位置づけてみても良いものでしょう。

 ジジェクはここで、かの『解明される意識』のデネットの著作の中から、ララングの発生現場とおぼしき箇所を具体的な光景のなかから指摘していた箇所をピックアップしています。
 デネットは子供達は自分に話しかけることを悦ぶということを指摘しています。さらに、それは完全に明晰な発話ではなく、両親から又聞きした断片の物真似と模倣といった「半分だけ理解できる自己評価」という重要な事実をも、指摘しています。


「こうした喃語は、『親しみの繋留索』、その実際の意味とは独立した『同じもの』として同一化/理解される、潜在的な意味の結び目を与える。−『ある言葉は、たとえそれが理解されることがなくても、親しいものとなりうる』のである。喃語は、こうして、意味それ自体を欠いていなければならない−シニフィアンは、まず、同一化可能な実在として結晶化されねばならない。その後に初めて、シニフィアンは本来的な意味を獲得することができるのである。とすれば喃語は、明晰に分節化された言語に先だつ、ラカンのいわ/ゆるララングではないだろうか?それは<複数の一>の継起、享楽(悦び-意味)のシニフィアンではないのか。」(276/7)

 ですから、ドゥルーズの「潜勢的なもの」という概念の中には、後期ラカンを研究する上で非常に重要な指摘があるのだ、ということをまずご理解頂きたいと思います。次回はそこから話を進めてみましょう。