唯フン論、あるいはヨーグルト入りカレーライス?

 さて、ここのところ、赤ちゃんのうんちとおっぱいを考えながら、話を対象a唯物論、というと言い過ぎですね、まあ物質主義、くらいでしょうか、まあそういうところまで展開させてきたのでした。

 たとえば、ラカンの前回冒頭に掲げた引用箇所にもあるように、それは思惟の場合でも同様です。真の思惟、というのがあったとして、それは恐らく存在の本質を思惟するものということになるのでしょうが、だとするとその本質は具体的に何かの実体のうえに宿ってものとして具現する必要はまったくありません。たとえて言えば、金融のシステムのなかで、お札やコインが全く必要ないのと同じようなものです。(と書こうと思ったけどこの辺はあんまり自信がないっちゃないところで、もうちょっと中野さんの本を読みこんで勉強せねばなりません。。。)しかしながら、思惟はなんらかの実体を必要とする、ように見えるときもある。だとするとそれは、この《他者》の意志というものが不明だからです。不明なものの相関項が物質であり、だからこそ、物質として対象aが必要、ということになり、なおかつ、神様が世界を(物質として)作らねばならなかった理由ともなります。つうか、物質のもつ不透明性(その重苦しくそして扱いの不便な性格)は、《他者》の意志の不透明さそのものでもあり、その不透明さが、循環の中に物質としてあらわれる過剰ないし過小を作り出すことになるのです。

 ちょっと話が抽象化しましたから、また赤ちゃんの話に戻しましょう。

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