神様撤収中。。。

 以前ドゥルーズのヒュームの話をしたときのこと。「反射」という問題について、ちょっと触れたのでした。

 べつだんドゥルーズにとどまらず、一元論的な傾向の強い論者は、この部分に共通のネックを抱えている、といってもいいように思われます。自己展開、という、ある種の力能の展開にはこの手の説明はなんの不備もないという場合は多いのですが、この種の展開がシステムとして機能し出すには、ある程度の自己再帰性が必要となります。この際の力のモメントを説明するところに、困難を抱えることになるわけですね。
 たとえば2004年12月05日に、後期フィヒテについて書いたときにも、おなじようなことを感じたものでした。フィヒテの場合ははっきりとそれは自己意識であり、偶然性という問題として主体性の問題とリンクして論じられていました。生の表現としての思考と、それが自己を直観するということ。そのターニングポイントの偶然性。ベルグソンのエラン=ヴィタルは、おそらくこれとは少し違った文脈で処理しなければいけないものなのでこの範疇に含めることはしませんが、一元論的な論理構造にはある種の飛躍を必要とする、という点では共通点を抱えます。

 とはいえ、さしあたりここで大事なのは、いわゆる二元論というのが、たとえば精神と物質とか、主観と客観とか、そういうわかりやすい二項対立である必要は必ずしもない、ということです。それだけではなく、この偶然性に確定した立場を保証してやること、それが二元論でもあり得ます。
 そんなわけで、ジジェクがそのドゥルーズ論で、(アンチ・オイディプスの)ドゥルーズに対置して、弁証法唯物論を称揚したのは至極当然の流れです。潜勢的空間から構成された現実への移行的通過、その移行の瞬間にこそ真の生成の場があるのだとしたら、それは「或る潜勢的(象徴的)代補が前-存在論的である現実的なことへ付加されるとき、みずからを構成する」(『身体なき器官』167-8)のだと。

(このへんあたりに目を通していただければ幸いですが。)
 さらにいえば、後期のラカンはララングという概念を通じて、次第にある種の一元論的な傾向を強めていくことになります。例のじいさん、晩年にはアンアンアン、とっても大好きドラえもん、ではなく、Un, Un, Unと連呼し出すようになる、のですから。この「一者」についての論述が《他者》Autreという概念と並んで重視され、Y a d'l'Unとか言い出すようになると、なんですかそれはプロティノスにでもお帰りですか?と思ってしまいます。本人は、パルメニデス集合論、と言っていますので(1972年6月1日)、それはまた別の話なのでしょうが、ともあれ後期ラカンにおいて、一元論という問題はいずれ考えなければいけないテーマになることは確か。

 とはいえ、今回どうして突然そういう話になったかというと、ゲルショム・ショーレムが、この種の一元論と二元論の対立を、さらに長い射程で論じていることに気づいたからなのです。

『神の闘い』[K.ラインハルトほか「創造の形態学」(辻村誠三 ほか訳、平凡社、1990)所収]
『無からの創造と神の自己限定』[A.ポルトマン、G.ショーレム、H.コルバン「一なるものと多なるもの」(桂芳樹、市川裕、神谷幹夫訳、平凡社、1991)所収]

 とりあえずこの二本から。

 ドイツ観念論が、その着想とまではいわずとも、インスピレーションをキリスト教神秘主義から得ているというのは哲学史上も良く知られた話です。シェリングの話をした都合、ヤコブベーメやクザーヌスの名前が出てくるのは当然のことなのですが、そうしたわかりやすい例以外にも。
 もちろん、中途半端に元ネタを知った気になって、そこから全部あとのネタを説明しようという試みは決して誉められたものではない(ボルク=ヤコブセンラカン論とか)とは思うのですが、ひとつの思想史上の出来事をある一貫したパースペクティブのもとに整理するという試みは、それ自体は有意義なことです。ですから、ここではそのくらいの概観、オーヴァーヴューくらいのニュアンスで、ショーレムに倣って事態を整理してみましょう。

 ショーレムのテーゼは簡単です。「無からの創造」。神学がこれをどう扱うか。ということです。

 無からの創造というのは、実は神話をあっちゃこっちゃひっくり返してもほとんど類例を見ないのだ、とショーレムは言います。普通、いろんな国の神様はそれぞれがそれぞれなりの努力を通して世界をお作りになられるわけですが、だいたいの場合材料は既にお持ちです。混沌とか。あとはなんか泥とか海とか。ああそうそう、矛も必要です日本の場合。
 それはアリストテレスにおいても変わりません。アリストテレスは、既に存在しているものの内在的な諸原理について語ったのであって、絶対的な始源という意味での原理には関わらない人でした。したがって、中世神学者アリストテレスの思惟世界に無からの創造という思考を接ぎ木させようとするときに、大きな困難が生じたのだ、とショーレムは言います。ですから「唯一神の諸宗教の宗教思想家がギリシア哲学と論争するときには大部分まぎれもなくこの回転軸をめぐって行われた」(『無からの創造』65-6)のであり、そしてまたそうした唯一神の教義が発展していく中で、かならず「無からの創造の教義によって抑圧された、かつての一元論的一性の思想ないし理解が再び取り上げられているのをみるのである。」(『無からの創造』79)のである、とショーレムはまとめます。

 この傾向は、やがてひとつの方向に向かって収斂していくことになります。無からの創造の新解釈、それは充溢という逆説的なシンボルを通じて行われるのです。
 つねに神自身からの創造という形をとる、それは変わらないのですが、そうすると、創造を制約する無、それこそが神自身である、ということにされるようになるのです。無すなわち非存在は、ここで一気に存在の根源的な無、神の存在超越の無へと展開を遂げます。「神が自分自身から(そしておそらくは自分自身の中で)生み出した創造のシンボルとして、無からの創造を描写すること」(『無からの創造』82)、それがこの収斂先です。

 たとえばその代表的な例として、偽デュオニュシウス・アレオパギタの言葉をあげましょう。


「あらゆる事物の存在の根拠であり、しかも自らは無なる存在である。なぜなら、神はあらゆる存在を超えているからである。」(『神名論』 キリスト教神秘主義著作集(1)ギリシャ教父の神秘主義教文館、1992年)
 ですからここでは、無とは神の意志、神の言葉としての無とされるようになります。そしてそれが顕現すると創造となる。「意志が無から事物を創造したのではなくて、意志そのものが神から出現することが創造におけるその無なのである。この無から、最初の存在ヌース、すなわち知が起こる。神自身はその隠れた本質にあっては、なおこの無を超えたところにいる。」(『無からの創造』86)

 こうした意味での知、これはすでにフィヒテに受け継がれたことも見ましたね。ついでにいいますと、フィヒテの一者の自己収斂contraction、根源的な個体化作用(actus individuationis)を引き起こす偶然的な形式という問題(このへん)は、この件に関するカヴァリストの議論に淵源を求めることが、どうもできそうです。

 なぜ神の無からあふれ出た存在がいつの間にか神に対して他者となり、そのまま対立するものになったのか。さらにいえば「神でない事物はいかにして存在できようか」(『無からの創造』103)という問題が、ここからは当然立ち上がります。
 イツハーク・ルーリアとその弟子達のツィムツーム(収縮)の理念は、神が自分自身から自分自身へと退くときにのみ、神は神の本質でも神の存在でもないものをもたらすことができる、とするものです。「神が自分の最初の行為を外に向かって行わず、むしろ自分自身の内に向けて行った、かの神の本質の自己限定において、無が姿を現すのである。」(104)この理念によって初めて、神の存在の外に事物が存在できる世界を思考できるようになった、とショーレムはいいます。神様が撤収中。そんな無責任な。。。

 しかし他方で、この概念は、創造における神の絶対的自由を保証するものでもあります。


「神が自己自身の内に入り込むこと。そこから生じた無は、至る所で存在の中に入り込んで活動する。純粋な存在と純粋な非存在は共に存在しない。すべて存在するものは神が行う二重の運動、すなわち、自身の内に収斂するかと思えば、同時に絶えず自分の存在からなにかを放射するという運動の結果生ずるものである。」(『無からの創造』106)

とある論者は、空集合(と、恐らくはフォン=ノイマン式の自然数の生成)の議論をここに重ね合わせていたりします。もちろんそれは印象論にすぎないのでしょうが、あとあとちょっと興味深いところで話がつながってきます。それはまた次回。