初夏の対象a


 さて、ほとんと3ヶ月ぶりの更新になった前回の記事では(いや、4月からいろいろ新しい仕事が入って本当に大変だったのです。世間様的にはふつうの仕事量なはずではありますが。。。)とある初夏の一日、わたくし、3ヶ月の赤ちゃんに会いに行く、という話をしつつ、そのなかでも、この時期の赤ちゃんにとってさえ、うんち=贈り物、という構図があることに触れたのでした。

 そりゃあんた、精神分析とか勉強してたお母さんだからそういうんじゃないの、とおっしゃる向きもあろうかとは思いますが、うんちとかしたあと妙に誇らしげだよ〜、と報告してくれるお母さんは別にこの学問に関係あるひとばかりではありません。まあそもそも、やっぱりいっぱいおっぱいのんでいっぱいうんちしてくれるという、丈夫で健康的な赤ちゃんは両親にとってほんとうに嬉しいものですから、その両親の喜びをうけた赤ちゃんが、両親に喜びをもたらすことができる自分にも、両親によろこびをもたらす証であるうんちにも、誇りを持ったとしてもなんの不思議もないわけで、こうやって話を分解してばらしていくと、うん、クライニアン風とはいうけれど、特に精神分析という研究に特有の思考法や発想の産物というわけでもないよね、という気がしてきます。

 とはいえ、ここにひとつ不思議があるとしたら、それは再生産と循環、というラインと、生産と利潤というラインの、微妙にしてあいまいな境界線が透けて見えるところにあります。
 おっぱいを飲む赤ちゃん。そのおっぱいをうんちにして出す赤ちゃん。そしてその分すくすくと成長する赤ちゃん。初夏の日差し。実に美しい循環です。いや、だしたうんちは実際にはおむつごと捨てられてしまうので、実際にはあんまり循環はしませんが。ただ、そこにある美しいサイクルは、そこに何も足さず、何も引くこともありません。赤ちゃんは大きくなるよ?足すよ体重を?というつっこみももちろんあることですが(そして親にとっては何より大事なことですが)全体としては人類という種のサイクルを回しています。うん、アリストテレスが、人間は人間を産むといったのは、ほんとうに大事なことであるなあと実感するところです。(「カエルの子はカエルともいいますが、まあ鳶が鷹を生むという意見もありまして・・・」とかふざけた答案書いて済みませんくにたけ先生、と、一回性時代の悪事を詫びたい心持ちでいっぱいです。)

 さて、しかし、そこに「贈り物」としての、あるいは「作品」としてのうんちが入ってくるとなると、はなしはちょっと別です。

 そこにあるのは、ある意味では喜びです。いっぱいうんちをする赤ちゃん。それはいっぱい食べていっぱい出すということですから、この循環がうまく回っているということでもあり、うまく回っていればそこには喜びがある、というスピノザっぽい感慨をもったとしても不思議ではありません。ついでにいうと、これは詰まるところ景気循環が拡張局面、っていうか好景気ならうれしいってことだよね、というのと一緒。それを承けたドゥルーズ=ガタリのいう欲望する諸機械に限界効用の最適化的ニュアンスがあっても別に不思議でも何でもありません。スピノザ思想と資本主義勃興期の相関性というのは、別段かれらに始まる新しい思想ではなく、むしろ(当然ドゥルーズ=ガタリ本人たちも十分に意識している)常識に属するのであって、某書で論じられているようなかたちで、なにも鬼の首を取ったように「こういう風に読めるじゃないか」と騒ぐほどのことではないように思います。

 まあそんな余談はともかく、大事なのは、そこにこの「喜び」というものがどうしても入ってくるということです。神秘なのはこっちのほう。

 では次回はようよう本題ということで、その「喜び」あるいは「意志」という問題をちょっとかんがえてみましょう。