魚はいつも


魚はいつも 無口だから
わたしから話しかけなくちゃ

こんながまんがいるなんて
こんながまんがいるなんて

(矢野顕子"Angler's summer")

 話す、ということは、たしかにちょっと不思議なことです。
 わたくし自身はといいますと、釣りはまったくしないのですが、そして結構きらいなのですが(潜って獲った方が早い、と確信していたイラチな少年時代を持っていたりします)、そんなわたくしであっても、つりびとがしばしば言うなる、こういうかたちでの対話というのは、何となく理解できなくはありません。で、ホロヴィッツもびっくりのヒストリック・リターンを遂げた今回のネタは、こんな対話についてのおはなしから選んでみました。ブルーノ・ラトゥール「科学論の実在」(川崎勝、平川秀幸訳、産業図書、2007)からです。

 実はこの本、以前とある機会にひとさまにおすすめし、おすすめする際に推薦理由を明確かつ手短に説明することに失敗していたために、なんかしら説明を補足しておかねば申し訳ないしブログにでもまとめておこう、と思っていたのです。しかしまあ、よんどころのない用事が二つも三つもかぶってしまったので、先延ばしにしているうちに、今ではもう紹介し直しても手遅れな〆切後、になってしまったわけですが、やろうと思っていたことは何年先でもやりたいゾウかタヌキのように執念深い性格、いまさらだけどやっちゃうもん、という。うん、誰にも良いことのない話で恐縮です。

 ラトゥールさんといえば、社会構成主義者といわれたり、いや今ではアクター・ネットワーク理論の主導者といわれたり、『知の欺瞞』が邦訳されたときには相並ぶビッグネームの中でただひとり日本では紹介が(そんなには)進んでおらず、可哀想に批判のほうから先に名前が売れた格好になっちゃったりと、うん、いろいろ忙しい人ではありますが、この本に続いて「虚構の<近代>」の邦訳も間近と伝えられていますから、ANTとその著者というイメージ先行の内実を埋めるべく、これからどんどん読まれていくことになるでしょう。

 さて、結構な厚さのあるこの本ですが、まずは切り口として、第4章、第5章で取りあげられているパストゥールのはなしから入ってみましょう。なにせこのひと「細菌と戦うパストゥール」なる邦訳もあるパストゥール伝(おこさまでもあんしんしてよめます)を書いているくらいですから、パストゥール愛はほんものです。たぶん。
 で、ここで問題となるのは、パストゥールと彼の乳酸発酵素。乳酸発酵、いまではすっかりおなじみですが、パストゥールの時代に身を置けばはなしはずいぶんちがう、とラトゥールはいいます。というのも、微生物が発酵を説明できる、という考え方は、斬新だから受け入れがたいとかいう話ではなく、むしろ従来の生気論的説明への退行と見なされるがゆえに受け入れがたいものだったから、と。いかなる生き物の介入も許さず、生命のない、物質の劣化によって純粋に化学的な方法で説明するのがモダンってやつだよ、きみ、という話だったのだそうです。

 まあそんなわけで、パストゥールさんも論文の最初では、酵母は化学的な発酵機構の副産物、あるいは発酵を妨害する不純物かも、とされています。ところが、論文が終わる頃には、この発酵の唯一の原因として、明確にされているのです。



 さて、そんなわけで、まずこのよくわからん酵母さんが観察されます。「現象そのものが、それが何についての現象であるのかに先行する」(151)という具合ですね。そして、この謎の対象xが実際に存在するものであること、さらにその本性を明らかにするために、実験が行われます。その実験によって酵母さんはラトゥール呼ぶところの「行為の名前」へと変わります。つまり、なんちゃらを濁らせるとかなんちゃらを形成するとか発生させるとか消失させるとか、そういう一連のパフォーマンスの束に付けられた名前に変わるのですね。そしてそれが酵母の能力である、という定義が生まれます。そして最終的には「行為の名前」から、明確で限定された実体を持つ「事物の名前」へと移行するのです。つまるところ「本質は存在にほかならず、存在は行為にほかならない」(157)と。こうして、対象xであったものが名前を持つようになる、とラトゥールはいいます。対象x、うん、なにやらラカンめいた言い回しですがむろんのことなんの関係もありません。っていうかそもそもべつに普通の言い回しだし。でも、ラカンが1977年3月8日の講義で、パストゥールに言及していたりする、しかもそのなかで一度、フロイトとパストゥールを言い間違える、という小ネタは、一部のマニア向けに入れておきましょう。



 まあそれはともかく、ここで少々逆説的なのは、ここでは何かしらのアクターを酵母なるアクタントへと定義するために、パストゥールさんがあれこれ手を替え品を替え呼びかけていることです。酵母さんも無口だからわたしからはなしかけなくちゃ、という具合。つまり、「パストゥールが作業を行えば行うほど、彼の作業の対象である実体は独立していく」(176)のです。つまり、パストゥールさんは「発酵素は私の実験室で制作された」と「発酵素は私の制作から独立している」の二つの言明を「同義に」用いることが正当化される立場にいるというのです。

 これは、ごくごく単純な二元論、つまり、一方で手つかずで生の現実、他方でわれわれの思惟思弁の産物としての内界、という二元論に対立します。こうした二元論の中では、なにかしら手を掛けてこちゃこちゃといじれば、それは人工物であり、つまるところわれわれの恣意によって生み出される自律性を欠いた産出物になるはずなのですが、パストゥールさんのケースでは話は逆で、手を掛ければかけるほど、それはパストゥールさんから離れて自律した実在を持つようになります。これを、ラトゥールは「パストゥールの「構築主義実在論」とでも呼ぶべき奇妙な特徴」(173)と呼びます。そして、ラトゥールはこう述べます。長いですが引用しましょう。

「誰がこの新しい培地において行為を行っているのであろうか?パストゥールである。なぜなら、彼は播き、沸騰させ、濾過し、そして見ているのだから。乳酸酵母である。なぜなら、酵母は急速に成長し、養分を吸収し、力を獲得し・・・同一の場所で植物のように成長していく他の類似の存在との競争を開始するのだから。もしパストゥールの作業を無視するならば、素朴な実在論の落とし穴・・・に滑り落ちることになる。しかし、もし乳酸に委託された自動的で自律的な活動を無視するならば、何が生じるだろうか?素朴実在論の落とし穴と同じくらい底なしの社会構築主義という別の落とし穴に落ち、非・人間・・・を無視することになる。」(169)


 こうして素朴実在論と社会構築主義という、いつわりの対立を否定した後には、なにか肯定的なテーゼを持ってこないと行けません(じゃないと泥仕合になって終わってえらいことになる、と、長年の議論で確信したんですわたし、とラトゥールはいってますが)。それが以下の三つの術語、命題、分節化、発話の定義につながっていきます。ここで、ようやく枕に振った話が、うん、回帰するわけですね。

 その辺から、次回はおはなししましょう。