イタチ on the run?

 さて、ここ二回ほど、ブルーノ・ラトゥール「虚構の近代 科学人類学は警告する」(川村久美子訳、新評論、2008)を読みすすめて来たわけでございます。

 セールのこの「準-客体の理論」の節は、それ自体とくにラカニアン的にも多くの示唆を与えてくれる箇所ですが*1、とりあえず脱線は避けておきましょう。
 とりあえず、ここでは前回紹介しそびれた、仲介と媒介の区別だけをおさえておけば十分です。*2パスされるボールはパスする人間からパスされる人間へのメッセージを仲介するだけのモノではない。むしろ、すなわち移送するもの(この場合はパスの出し手)を翻訳し、定義し直し、再配置し、裏切ることができるアクターとして捉えられるようになるべきものです。たしかに、意外なパスの一本が通った局面というのは、パスの出し手受け手そして局面全体を再配置することになるはずであり、そのパスが意外であればあるほど、ボールそれ自体がある種の主体として周りを動かすものとなるはず。逆に言えば、そこから形成される社会的絆、あるいはチームケミストリーとは、つねに意外性、あるいは(良い方向でも悪い方向でも予想や期待を、という意味での)裏切り者という側面を持つはず。この辺はオシム先生に聞いてみたい気もしますね。

 この区別がなぜ重要かと言えば、セール本人の著作が「パラジット」すなわち寄食者、居候、ノイズを意味する語であることからも分かるように、それはノイズであり、関係を損なってしまうものであり(ていうか関係が直接的なものになって100%ぴたりと行くんだったら関係じゃないでしょ、とセール先生居直ってます。こんな居候になりたい。。。)しかしそのことで整流器として、新たな意味の創造をもたらす者として機能するとされているからです。*3ラトゥールに言わせれば、媒介はそれ自体、自律的な出来事であり、媒介者は自ら媒介する相手の存在者も、翻訳の内容自体も作り出す、ということになっていますが、それはここまで見てきた説明によってだいぶ明らかになってきたのではないかと思います。


 とはいえ、準-客体および準-主体を準-モノおよび準-主体に読み替えることの説明は、ラトゥール自身からはこの書では提示されていません。まあ、フランス語のオブジェは客体というよりただのモノ的なニュアンスも多々ありますから、気にしないでもいいような気もしますが。ひとつには、しかし、ラトゥールが言うように、「漸進的な冷却過程」を経てこの関係が安定化し、自然と社会、モノと主体に分化していくからかもしれません。とはいえ、それは単に関係が安定化したというだけで、本質が固定化されたということにはならない、と考えてみたほうが正確かしれません。こうして、ラトゥールは、緯線に自然と主体/社会の極を、経線に本質と実存の極を置いた以下の図を提唱します。存在者には事象から本質までの開きがあり、それが表す勾配が、存在者の安定性を記録する勾配として定義されます。人間の実存は人間の本質に先立つ、というサルトルの言葉は、すべてのアクタントにも当てはまらなければならない(151)、そのことによって「本質を出来事や軌跡として見る」(152)のだとラトゥールは説明します。緯度と経度といわれても困んねん、というかたのために、以下の図が。ちゅうこってすわ。オマエのスキャンの緯度と経度がゆがんでいるぞ、というツッコミは無しの方向で。




 これを、ラトゥールは拡大シンメトリーの原則といいます。すなわち、自然が構成されたものとは言えないのと同様、社会も構成されたものとは言えない。自然と社会は、一つの安定化プロセスのふたつの結果にすぎない。説明は準モノから始まって、自然と社会はあとから説明される、と。つまり、最初にあるのは、自然-文化の組み合わせだけであり、それが唯一利用可能なものです。われわれが共通に行うことが一つあるとすれば、それは人間共同体を構成し、それに取り込む非人間を作り出していくことなのです。科学やテクノロジーは真実に肉薄するから、あるいは効率がよいから注目されるのではなく、共同体の創出につながる非人間を倍増させるから、そして非人間を取り込んで作られるコミュニティをよりなじみ深いものにするから注目されるのだ(186)とラトゥールは述べています。


 であるならば、とラトゥールはひとつ、ちょっと奇妙な譬えを持ってきます。それはモノの議会Parliament of Thingsとはいえまいか。なんのこっちゃい?わかります、珍妙ですよねこの言葉。でも、ラトゥールは説明します。そこでは、純粋な真実はもはや存在せず、裸の市民なるものもおらず、ただただ媒介するものたちと定義されるものだけが空間全体を占領している。自然はその名において語ってくれる代理人の科学者とともにあり、社会は底荷の役割を果たしてきた対象とともにある、という具合です。そこでは、すべての代理人は同じ話題すなわちかれらが共同して作り出した準モノ、対象-言説-自然-社会という連関について語っているのだ(241)と。この社会はある意味で自由主義的です。というのも、ここでは自由とは、連合を自由に構築し、時間の流れが選択の自由を制限しないよう配慮する。社会技術的なもつれを解いては結合する能力とされるからです。そのことによって、なされるのはこういう仕事だということになります。

「自然を作り出す仕事、社会を作り出す仕事は、代理と翻訳という共通の仕事の、後戻りできない手堅い結果から生じている。このプロセスの最後に、私たちが作ったのではない自然と、私たちが自由に変更できる社会が登場する。論争の余地のない科学的事実、自由な市民も、そこに同じように現れる。」(236)

 それを保証するべきものとして、

第一の保証:準モノ、準主体の分離不可能性。しかし、自然と社会の不分離状態には、大がかりな実験を不可能にするという欠点があるため、自然の分離可能性(超越性)と、社会の操作の自由度(内在性)という特徴は保持しておく。ただし、自然を構築し(内在性)、社会を安定させ持続性を高める(超越性)というメカニズムは継承しない。
第二の保証:自然が客体化し、社会が主体化する漸進的過程(操作の自由を獲得する過程)を妨げるものは非道徳的である。
第三の保証:連合を自由に構築し、時間の流れが選択の自由を制限しないよう配慮する。社会技術的なもつれを解いては結合する能力が自由とされる。
第四の保証:公のもの、共同体のものとすることで、ハイブリッドの生産は拡大民主主義の対象となる。拡大民主主義はハイブリッドの生産を制御し、そのペースを抑える。

という四つをラトゥールは必要な条件として定義します。このうち、第一のそれはハイウェイと地上道の利便性の違いにも配慮が行き届いたものですし、第四のそれは、モノの議会という珍妙な用語の説明をしておきましたから、わかりやすくなったかと思います。時間に関しては、いろいろと面白いことをいっているのですが、ここでは割愛しましょう。


 こうして、残る問題は、こうした知見がどのように精神疾患の問題に示唆を与えてくれるのか、ということになります。



 もちろん、なにか素晴らしい打開案がいきなり生まれる、などというファンタスティックなことは起きようもないわけではありますが、やはり出発点とすべきは、前回ご紹介したラトゥールのアイディア、「本質そのものに代えて、本質に意味を与えている媒介者、代理人、翻訳者を導入すること、そのことによって、「漸進的な冷却過程」を描き出すことができるはずです。そして、最終的に自然ないし社会の本質へと固化していくはず。このとき、人間は優れた媒介役であり、二極の交差路にすらなる存在として描かれます。」というものでしょう。そしてもう一つは、ラトゥールに大きな示唆を与えたセールの準-客体の理論は、「いっしょに生きるということはどういうことか、集団とは何か。この問題が、いまや、われわれの心を惹きつける。」(ミッシェル・セール「パラジット : 寄食者の論理」(及川馥、米山親能訳、法政大学出版局、1987)、372)という問いから始まっている、ということです。



 ミラノ学派の家族療法が端的に示したように(もちろんドラを分析したフロイトから既にそうだったと言えばそうだったのですが)、症状というのは、つねに主体が取り込みかつ取り込まれているシステム全体のひとつの結節点でした。もちろん、かなり多くの場合はいっさいのツケを廻され押しつけられている不幸な結節点だったわけですが。そして、そのシステムなるものは、もちろん家族療法の場合は家族をその代表的なシステムとしてとらえたわけですが、無限に多くのバリエーションが考えられるでしょう。
 その中には、モノ、言葉、現実的な症状、それらをカテゴリーの違うものとして区別する必要はありません。ヘーゲル的な否定の力、あるいはラカンシニフィアンとして導入したのは、これらいっさいを等価として互いが互いに交換可能な対象であるとする力が人間的な力である、ということでした。そして、その交換とは、以前に触れたスピノザが述べていたように、たとえば観念の交換ひとつをとってみても、たとえば画に描いた餅と画そのもののような関係、つまり外的事物とその表示の関係にあるわけではなく、何かが何かと共通の対象を表現しているということでもなく、その交換を生みだしたなにかの力を表現しているのであり、それゆえに連鎖する自律的な体系だと考えることができたのでした。その意味で、人間というのは雑多なハイブリッドの要素のネットワークから成り立つ一つの安定系であり、同時に症状もまたそうした安定系のひとつであり、それゆえに、「人間という症状」(藤田博史)ということもできたはずなのです。(以下補足)人間の身体はやや開放的で、外部の(それもしばしば自分の作り出したモノによって形成される)モノを所与の前提として完全なモノになる、いや完全という言葉に問題があれば、すくなくとも安定した系になる、ということ、ラカンはそれを、三半規管に砂粒を取り込むことで平衡感覚を保つある種のエビになぞらえていました。人間にとって言語がこの砂粒のようなモノだったら、そのとき、言語はモノなのでしょうか、それともわれわれが考えるような観念の記号なのでしょうか。おそらくその区別は質的な区別ではなく単に用法の違い使われる場の違いということになるはずです。

 逆に言えば、そうした雑多な要素をどう構造化して自らの身体の上につなぎ止めているか、それがさっき「安定系」というちょっといい加減な言葉で示したことを明確にしていく上で必要な探求課題となるはずです。ラトゥールの言葉を借りれば、それは「冷却過程」でもいいでしょう。モノがモノを、モノがことばを、ことばがモノを、ことばがことばを、それぞれに代理して語るにぎやかな身体としてのわれわれ。そこでは、モノが何かを引き起こすことが問題なのではなく、モノを使って何かを語らしめる、あるいはモノが何かを語ったことになってしまっていることが問題なのであり、そして逆に言葉がモノに何かを引き起こすということが問題なのでもなく、言葉がモノを使いだてして自分の代わりにしゃべらせることが問題なはずです。
 そこでは、少なくとも、何かが何かの原因である、という言辞は、何かから何かまでを結ぶモノと言葉の複雑な複合体としてのネットワークの存在が確認されたどることができたときにのみ成立するものなのであり、それゆえに特異的であり、それが主体である、と考える必要が生まれてくるはずなのではないかと思うのです。

 そのことは、皮肉なことに一つの問いを前提とします。集団としての自分、集団の中の自分、そのなかで、ともにあること。新たな主体性の問いが新たな集団性の問いでもあることを。

*1:というより、この節のセールの記述は、イタチから割符にいたるまでラカンの用いたたとえ話とぴったりおなじで、さすがにここまで一致するとあんた知ってたでしょ?とセールさんに聞きたくなるのもやむを得ないところです

*2:英語版は手元にないので分かりませんが仏語版で見る限り媒介mediateurと仲介intermediateurでしょうか。ちなみにこの区別もセールにあります。

*3:ノイズ、寄生者、非関係。さきほどはラカンの比喩とぴったり一致する、といいましたが、ここまで来るとむしろ、ラカンのさまざまな時期を一つの概念枠の中に整理し直すいい機会を与えてくれているようにさえ思えてきます。あるいはおおざっぱになっただけかもしれませんが。