マタンゴ

「いくら頭が良くったって、可愛くたって、キノコ人間じゃあねぇ」
(筋肉少女隊『マタンゴ』)

「ゼニ勘定のほかすることない。おまけに毎日毎日ぼくはぁ〜カタギの男だからなぁ〜カタギの!ってそればっか。でもそんなん人間ちゃうで。おんどれキノコや。」
「ん?なんやって?」
「キノコやっちゅうねん!」
(『こぼんさん』第7章)

 さて、下のほうの引用箇所、フランス人のイマジネールには人をキノコにたとえるっつうのはありませんな、と、加藤晴久先生は注釈をつけていらっしゃいます(アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ、「自分で訳す 星の王子さま」(加藤 晴久注釈、三修社、2006)、67頁)。上を見ても分かるように日本人にはあるで〜、と威張ってみたいところですが、意外にもこのイマジネール、じつはイギリスにはあります。それもなんとホッブズ。ここは孫引きですが、レオ・シュトラウスホッブズ政治学」(添谷育志、谷喬夫、飯島昇藏訳、みすず書房、1990)の154頁に引用されているホッブズの言葉を見てみましょう。

「たったいま突然に、大地から(茸のように)出現し成人となった」(『市民論』, VIII, 1)


 なるほど、キノコ人間です。

 しばしば、新自由主義からリバタリアンにいたるまでの人間観は、合理的計算に従う自律的な人間を前提としすぎだろう、という批判があがります。まあそれが良いことか悪いことかはさておいて、ホッブズせんせいはすでにこれをキノコ人間という卓抜な比喩であらわしていました。もうひとつ別の作品から大槻ケンジに従うのなら、

「キノコパワー どこか僕を連れて行って キノコパワー 遠く高く 放り投げてくれ」
(筋肉少女隊『キノコパワー』)


とお祈りして、この社会に是非とも適応したいものだ、と切に願う今日この頃です。いや、ジョン・ケージが、という反論は認めません。それともかれらはどこかで通じ合うのだろうか、という仮説は、興味深くはありますが、これはもうちょっと考察が必要ですから、いまのところはやめておきましょう。

 まあ、それはともかく、ホッブズ。さらにレオ・シュトラウスから続きを引きましょう。どれもホッブズの著作のパラフレーズです。

「この世界とひとたび関わりあいをもったひとからは、喜びと同時に笑いが消え去らねばならない。つまり、人間は真面目で、ひたすら真面目でなければならない。」(155)

"Je suis un homme serieux! Je suis un homme serieux!"(俺は真面目な男だ!俺は真面目な男だ!)


 下は、今度はふざけないでそのまま訳しました。『星の王子さま』の先ほどの引用箇所の原文と直訳です。しかし、見事にそのまんま、サン=テグジュペリレオ・シュトラウスを読んだのか?年代的には可能ですが、どうでしょうね。

 ちなみに、イギリス哲学で読む『星の王子さま』シリーズには、次のようなネタもあります。

「僕は自分の持ってる花に毎日水をやってる。自分の持ってる三つの火山も毎週すす払いしてる。休火山のだってやってる。いつまで休火山かわからないし。僕は自分が持ってる火山の役に立ってる。自分が持ってる花の役にだって立ってる。でもおっちゃんは星を持っていても、星の役に立ってはいない。」(『星の王子さま』第13章)


 うん、そのまんまロックの所有論ですね。


 というわけで、意外にもおフランス文化の代表作的あつかいの『星の王子さま』、じつはイギリス哲学から見た方が面白いかもしれない、探せばもっと他にもあるかもしれない、という気もしてきます。もちろん、カトリック的寓意というおなじみの切り口のほうがはるかに重要でスタンダードなものですが、このへんは不信心者には難しいところも多いものですから、そこは遠慮して。


 で、なにはともあれホッブズ

 せっかくですから、このままレオ・シュトラウスをちょっと読んでいきましょう。次回はそこから。


 で、今回はさいごにおまけ。*1

マタンゴ


そしてキノコパワー

*1:ちなみに選曲からもわかるように、わたくし、「筋肉少女隊は三柴江戸蔵ちゃんまでだなあ」というこころのせまいおとこです。おかげで日本印度化計画とかしらへん。。。