賢者の石

 というわけで、前回は「イギリス哲学で読む『星の王子さま』」なるインチキな小ネタをマクラに、そのままレオ・シュトラウスホッブズ政治学」(添谷育志、谷喬夫、飯島昇藏訳、みすず書房、1990)になだれ込んだわけでした。

 この書物での、レオ・シュトラウスの主張はとっても明快です。近代的思惟の根源としてのホッブズ。つまり、若き日に身につけた人文主義的な教養から脱し、かつその時代のガリレイ的科学主義の影響を受けつつもそれとはまた別のところに根をもつ思想家としてのホッブズを、その初期著作から検討していくことで、その根源的なオリジナリティを示すこと。

 レオ・シュトラウス自身の説明を借りましょう。かれによれば、ホッブズの基準となる信念は近代特有のものであり、それこそが、近代意識の最下、最深の層に他ならないものです。この思想が浮かび上がったのは、まさに歴史上のほんのわずかな空白期間、すなわち、古代に起源を持つ伝統が動揺しだし、かつ近代的自然科学の伝統がいまだ形成されず固定化されていなかった、そんなつかの間の時期であり、ホッブズはまさにこのときに思索を行ったのです。しかし、このつかの間の時期こそが、それ以降の全時代にとって決定的に重要なものとなります。すなわち、近代的思惟はここから見たときに初めて根源的に理解されるのです。(7)
 たしかに、ホッブズの思想のもつ妙な現実感というのはほかに例がないものがあります。それ以前も、それ以降も、哲学というのがある種の理念性をつねにともなっているのにたいし、ホッブズの思想は、うんそうだよねそれが現実だよね的な異論を許さない圧迫感があります。それだけに持って行きようによっては安っぽい現実主義者みたいになってしまうけど。とまれ、別段ネオコンは新ホッブズ主義だ、いやそもそもホッブズは〜だからそれは違う、とかよくわかんない話をひっぱりだしてこなくても、ある種の性悪説に立った現実主義はどうあってもホッブズに帰着するんだから仕方ないじゃん、と言いたくなるほどの妙な説得力に充ち満ちています。もっとも現実主義がほんとうに現実に即しているのかは別物だけど。そして、韓非子に始まってホッブズからシュミットに至るまで、ニヒルな現実主義者たちはたいていご本人の政治的立ち回りは上手くなく、不遇な晩年を迎えるものと決まっている、ということも付け加えておきましょう。まあそれにしても、91まで生きた(1588-1679) というホッブズや、97まで生きた(1888‐1985)シュミット、韓非も生没年不詳ですが諸説それぞれが60プラスマイナスなんぼという値を取っていますから、みんな長生きです。一番長生きする奴を一番の現実主義者と呼ぶべきだ、といいたくなりますね。

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 じゃ、ホッブズ性悪説、その柱となる人間観について、レオ・シュトラウスは、ホッブズは人間的自然についてふたつの公準をもっていたと言います。一個は自然的欲望、もう一個は自然的理性。まあ、ここまでは何となく普通です。

 自然的欲望、っていってもいろいろあるじゃん最大欲求とかそういうの?と思いますが、ここでシュトラウスが切り出すのは「共同の事物の使用をもっぱら自分のためだけに要請する」ということ。最初からなにやら社会化されているような気もします。これを自然的と言っていいのかシュトラウスせんせい?というツッコミはどうしても念頭に浮かびますが、これが話の味噌でもあります。人間は獣と違って理性的であり、理性的であるが故に将来の心配をし、心配だから余分にかっぱらい。つまり、獣的欲望は理性を意のままに用い、かつ無限に欲望する、という意味で、自然的欲望なのです。そして、その根源にある感情は、自分自身の力を眺めて得る喜び、すなわち虚栄心である、とされているのです。

 ここで面白いのは、欲望の無限性という問題でしょう。いや昔からあるよ、後漢書にだって「隴を得て蜀を望む」って書いてあるよ、という気もしますが、隴を得て蜀その次は南越、みたいな、一個一個数え上げていく式の可能無限の欲望と、その抑制としての節度から、無限であるということを前提にその無限としての欲望、あるいは一個の無限としての人間を操作する、という、なんとなく実無限への移行とたとえてみたい操作性を感じさせるところに、ホッブズの「無限の欲望」の面白いところがあるのですが、これはまだ好い加減なたとえでしかないので、とりあえず保留しておきましょう。


 しかし、こちらの方だけを政治学の基礎とすることはできないとホッブズは考えていた、と、レオ・シュトラウスはいいます。そうすると、人間は自然的に悪であり、それゆえ何をやっても無駄になってしまうから。じゃあ、もう一つ同じくらい根源的な公準が必要です。この第二の公準が、自然的理性です。
 自然的理性といっても、規則は簡単です。最大の害悪としての、暴力による死を避けようと努める。それだけです。それがいわゆる、自己保存の原理というやつです。スピノザを読む人ならコナトゥスという語でおなじみのアレ。でも、生命の維持、といってしまうと、それだけでもうすでに充分に理性の表現となってしまう。そうすると、理性が理性を説明することになってしまいますから、ホッブズは死の恐怖を基本にしたとレオ・シュトラウスはいいます。死の恐怖は情動の表現ですから。それを理性的に計算して安心長命に変換するのが、自然的理性。だから、ホッブズは死の恐怖を好むのです。この世界に最高善は存在しないが、最高悪は存在する、それが死であると。(20)


 ですから、道徳の基本原理はこういうことになります。レオ・シュトラウスから引用しましょう。

ホッブズ政治論の出発となる対立は、一方において自然的欲望の根源としての虚栄心と、他方における、人間に道理を弁えさせる情動としての暴力による死への恐怖との対立である。・・・ホッブズは人間の自然的欲望を虚栄心に還元するがゆえに、それゆえかれは、苦痛に満ちた死一般への恐怖ではなく、いわんや自己保存の追求などではまったくなく、ただただ暴力による死への恐怖だけを道徳の原理として承認することができるのである」(23)

 こうすることで、ホッブズといえばアレ、アレといえばホッブズというくらい有名なアレ、「万人の万人に対する闘争」というスローガンが理解できます。これってなんとなく、現実生活の観察から経験則みたいに導いたものを原理として立てたのよね、という風に思っていましたが、むしろこの二つの公準から展開した帰結なのね、というのがレオ・シュトラウスの指摘といっても良いかもしれません。そして、ホッブズ政治論の根底にあるのは、一方に原則的に不正なものと見なされる「虚栄心」、他方に原則的に正しいものであると見なされる「暴力による死への恐怖」との、道徳的な人間的対立である、とレオ・シュトラウスはいいます。(34)


 しかし、合わせて面白いのは、この道徳原則を支える認識論とでも言うべきところが述べられている点でしょう。この二つの公準を結ぶのはそれである、といっても良いかもしれません。

「人間は自然によりまず自らの想像の世界のなかで生き、ついで他人の思い込みのなかで生きるのだから、他人との闘争において思いがけず現実世界を感知するという、そうした仕方によってしか、かれは現実世界をもともと経験することができない」(28)

 なんとまあ、イマジネールなものの優位がここに。これがヘーゲルへ流れ込み、そしてラカンに到達するのね、という、後ろ暗い思想の系譜。「ホッブズは・・・暴力による死の恐怖こそが、結局のところ唯一適切な自己意識であると考えているのである。」(79)「ホッブズの究極の言葉は、良心と死の恐怖との同一視なのである。」(31)ということは、自己への再帰性、あるいはデカルト的反省は死の恐怖に媒介されてはじめて可能だということですか、シュトラウスせんせい?と確認しておきたいところです。


 この世界では、暴力による死こそが、第一かつ最大最高の悪であり、唯一の絶対的基準なのであって、現実世界の認識の端緒は暴力による死だ!という、戸塚ヨットスクールもびっくりの現実原則が提起されています。(28)こういうアスペクトを踏まえれば、ネオコン式の力の政治学が新ホッブズ主義的といわれる気持ちもわからいではないし、レオ・シュトラウスの弟子がネオコンにたくさん流れ込んだんだからネオコンのご本尊はレオ・シュトラウスだ、とか話を飛躍させたい人がいる気持ちもちょっとはわからんでもないのですが宮台先生、という気持ちになってきますね。

 この死の恐怖、この第一原理に根付かないものはすべてまやかしです。たとえば、レオ・シュトラウスはこういう一連の対立項を指摘します。君主制と民主制、自然的国家と人工的国家、恐怖と希望。こういった並列関係の共通の基礎は、暴力による死の恐怖のなかに見いだされると。この意味で、後者に対する前者の優位、たとえば人工的国家に対する自然的国家の優位性は、ホッブズによって最後まで承認され続けている、と。(90)喜びの感情の方がより大じゃん?と、スピノザが力説していたのは、こういう背景もあったからかしら、と考えたくなるような薄暗い発想ですが、まあ仕方ない。。。


 でも、リヴァイアサンという人工社会身隊、じゃなかった社会身体からも分かるように、ホッブズの構想する社会は最終的には人工的国家でしかありません。じゃあ、そこに希望とか信頼とかじゃなく、ただ恐怖だけを原則にするにはどうしたらいいか。それが以下のようなプロセスを経る人工国家創設へとつながることになります。

「人間たち−−−父親ではなく諸個人−−−は人工的国家の創設に関して、相互的な恐怖、暴力による死に対する恐怖から、自発的に一人の人間ないし一つの合議体に最高権力を移譲する。そして、[他に選択の余地のない]それ自体として強制的な恐怖は、自由と矛盾しない。換言すれば、かれらは自発的に、それ自体として強制的な相互的恐怖を、中立的な第三の力すなわち最高権力に対する、これまた同様に強制的な恐怖によって置き換える。」(91)

 こうして恐怖は限定的、予測可能かつ回避可能な、通常裁判所によって法侵犯者にのみもたらされる危険によって置き換えられる(91)ことになります。つまるところ、街でだれかわからん奴に殴られるよりは親父に殴られる方がまし、だって親父ならどう扱えばいいかなんとなくわかってるもん、ってところ。たしかにのび太ジャイアンスネ夫の群雄割拠の予測不能性よりは、ジャイアニズム全盛のなかで全員でジャイアン対策を練る方がしあわせかもしれない。あいつ予測可能性極めて高いし。


 このように、ホッブズが自然状態の恐怖を評価する唯一の理由は、その恐怖の意識のみが持続的社会のもといとなりうるからです。そして、そのような恐怖を経験しないブルジョワ社会は、それを思い起こすかぎりにおいてのみ永続する(152)、とレオ・シュトラウスは解説しています。memento mori? そういえばこの主題が流行った時代ですね、ホッブズの時代は。それは内乱のうち続く暗い時代背景を背負った人間の諦念というよりは、積極的なイデオロギー的な統治の一環として使えるはず、ということなのだろうか、と考えたくなってしまうところです。いまんとこなんの証拠もないけど。



 しかし、この話の最後の一ひねりは、ここでしょう。次回はその辺の話からまとめに入りましょう。

*1:ちなみに、ホッブズせんせい、お亡くなりあそばす間際には、「わたくしは九一年間ずっとこの世から抜けでる穴はないものかと探してきたけれども、やっとそれがみつかった」とのたまわったそうです。前回の引用とは違い、意外にしゃれの分かるおじさんもといじいさんです。ちなみに、墓石には「コレコソ真ノ賢者ノ石ナリ」と書いてくれ、と頼んでいたそう。ますますイギリス的なシニシズムがここに。さらに言えばそれを聞いたある神学者は「こんにち残されている碑文より信仰心が向上するわけではない」と、冷めた皮肉で返していたそうで、ますますイギリス的。以上は、リチャード・タック「トマス・ホッブズ」(田中浩、重森臣広訳、未來社、1995)の79頁あたりから。なかなかいい話です。