牛に願いを


 近江牛に釣られて急ぎの仕事を引き受けてしまったので、すっかり間が空いてしまいました。

 怒濤の貧困生活が災いして、タンパク質不足が続いていますから、うん、そりゃ意志は強くても牛には弱くてもしかなたいよね、とひきうけたは良いですがこれが結構難物で、なんとかかんとか〆切前に無事終わらせたから良いようなものの、さて、これで牛を踏み倒されたらどうしよう、とひむがしの空を見上げながら考えていたわけですが、するとまあ、牡牛座のプレイアデスあたりに巨大な流れ星が。

 ああそうだジャコビニ流星群が来るとかいうのだった、ジャコビニといえばアストロ球団アストロ球団といえばアストロズ、ことしは終盤の追い上げにもかかわらずシカゴはおろかミルウォーキーにも届かなかったな、シカゴといえばブルズだやっぱり牛づいてるな、と、連想が進んで、そういえばノーベル賞を取った南部博士(ガッチャマンを連想)はシカゴ大だっけ、あれシカゴ大と言えばだれかいたような・・・で、ようやくレオ・シュトラウス。長いよ。

 そんなわけで、前回、前々回ともうなにを話したのかすっかり忘れてしまいましたが、今思い起こせばそれは、レオ・シュトラウスホッブズ政治学」(添谷育志、谷喬夫、飯島昇藏訳、みすず書房、1990)だったはず。メインテーマはキノコパワーじゃなかったキノコ人間。牛からキノコなんてタンパク質的には大暴落ですが、まあ仕方ない。

 さて、このキノコさんたち、かれらにとっての第一原理は暴力によってもたらされる死を回避することでした。しかも、その自然状態の恐怖を評価する唯一の理由は、その恐怖の意識のみが持続的社会を基礎づけるからだ、と。うん、なんとなく思い出してきた。
 とはいえ、ここまではまあまあ普通の話。しかし、ここで、あれ、という一ひねりが。その一ひねりを付け加えることで(はじめて)見えてくる展望があったりしたのです。なんてことを言いたかったはず、たしか。

 じゃあなによそれ、ってはなしですが、それが以下です。

ホッブズにとって自然状態とは何らかの歴史事実上の事実ではなく、一つの必然的な作為的構成なのである。」(131)

 そう、ホッブズは国家のじっさいの歴史的起源に対して何ら注意を向けていない、とレオ・シュトラウスはいいます。なぜなら、ホッブズにとって問題だったのは、政治的諸対象に関する判断の原理を、哲学的根拠づけることだったからです。かれが考えねばならなかったのは、内乱の絶えざる危険のなかに現れているような共同体の持つ不完全性を厳密に表現することでした。だからこそ、かれは、万人対万人の戦いを、人類の全く不完全そのものの状態として構成し、これを人間的自然の中に根源を持つものとして理解したのです。(130-131)そして、そこで見いだされた根源性が、さきほどの死の恐怖と虚栄心です。


 ですが、この人為的な設定によって、ひとつの展望も開かれます。というのも、この二つの原理を立てることで、あとは自動的に国家まで生成していくことが可能な機械をホッブズは作ったからです。いってみれば機械を分解して最小の構成要素に分解した上で、そのあとそこからきわめて滑らかに、可能な限り自動的な手順で再構成していくというような、ガリレイから借用した分解-構成的方法、というものでもあれば、同時にヘーゲル的な弁証法のご先祖さまでもある、とレオ・シュトラウスは解説します。彼らはともに何らかの超越的基準に即して現実的なものを図る必要がない、なぜなら不完全なものが自らを止揚し自分自身を吟味する様をひたすら眺めていればいいのだから、と。そこに二人の共通点があります。

 ですから、自然状態のなかにとどまろうとする人間は自己矛盾に陥る、相互的恐怖こそが自然状態止揚の動機である、というホッブズの反論はそのことを意味しているのだとレオ・シュトラウスはいいます。(133)こうして、政治学は完全な国家という永遠に同一的な模範ではなく、本質的に未来に属する完全な国家のプログラムを一番最初に構成することを課題として持つことになる(134)、と。要するに内在主義に基づく自発的な生成の過程による未来の哲学。なんかちょっとドゥルーズネグリかって語彙ですが。レオ・シュトラウス恐るべし、というところでしょう。



 この世界、この世界が前回お話しした、キノコ人間たちの世界です。この世界の人間たちが互いに取り結ぶ本質的関係は、以下のように描かれています。個々の人間は他の個々の人間のなすがままに委ねられている(ああサドだわ)。人間は見捨てられている。想像と摂理は否定される。それゆえに人間相互の関係は相互の義務によってではなく、各人の各人に対する正当ないし不当な要求によって規定される。(153-154)でもそのためには、、自然状態においては人間は相互の信約や服従なしに、たったいま突然に男や女として創造されたごとくに考える必要があります。それが、キノコたちです。


 ついでに、このとっても印象的な「不当な要求」、そう、われわれはいま互いが互いのことを「不当な要求」をする人間たちとして描きあっています。モンスターなんちゃらとか。でもそれは、言ってみれば「自衛のための戦争」なのです、自然権の。なぜなら、人間たちの関係はつねに「自衛のための交戦状態」を基礎とするのがこの社会だから。
 このキノコ人間の世界では、道徳と政治の基礎は自然法ではありません。自然法、とりあえずそれを自然的義務、かつ客観的秩序として受けとられた義務の秩序と、そうおきましょう。そうではなく、自然権こそがすべての基礎です。自然権ってなんじゃらほい、というと、あらゆる環境下ですべての人々の前で擁護されるが故に絶対的に正当化される最少限の要求、すなわち身体と生命の保存への要求です。これは最初にお話ししたように無制限に伸張します。だから、この無限、すなわち絶対的に正当化されない最大限の要求、他のすべての人々に対する勝利の要求、を制限することによって、自然権は構成されるのであり、自然法自然権の自然的結果として生まれる(189)もの、という風に、話が見事に逆転させられるのです。

 このあたりの手際の鮮やかは、レオ・シュトラウス、なんとなくやはり師匠筋(というには歳が近すぎる気もするけど)のハイデッガーによく似ています。あの明解な境界づけをともなったテーマ設定、じたじたとぬめぬめと進む議論(その割にときに飛躍するけどあんまりばれない)、やたらに博学、そして議論がぬめぬめ進んだ割には明快なオチ。でもなぜかれが、アメリカの若者達を魅了したのだろう、その謎はまだ、わたくしには皆目分かっていませんが。

 では、次回は簡単にまとめに入りましょう。