ハイウェイ・スター?

 精神分析というのはおおむね評判の悪いものですが、とりわけ評判が悪いのはエディプス・コンプレックスというやつです。

 評判が悪い割には、その教義が民間信仰に転訛した、といっていいヴァージョン、いわゆる「マザコン」は、いたって日常的に愛用されているのですから不思議なものです。ともあれ、エディプスコンプレックスというのは男の子はママが好きでパパがライバルで邪魔だと思っていて・・・というのは、いわゆる「パパ・ママ・ボク」の核家族的三角関係として、もう悪い冗談のようにしか理解していないよ、という方も少なからずいらっしゃることでしょう。

 とはいえ、これ、ちょいとバージョンちがいを考えてあげるだけで、それなりに応用範囲の広い便利なものです。人に聞かれたときはわたくしは、「あのね要するに偉くなったらいい女とやれる、って男の子の思いこみのこと」と説明することにしています。まあ、もてたいがゆえにスポーツなり音楽なり始める、というのは定番です。あるいは、お金持ちになるとか。困ったことに、これ、そこそこヒットするもので、まあまるっきり間違っているわけでもない、と、そういえばライブドアの社長が力説していましたね。。。まあともかく、これが男の子の単純な立身出世を支えていることは確かです、たぶん。そして、女性の社会進出の難しさはこの「偉くなったらやれる」が通用しないところにあるのではないかとさえ思うのですが、まあそれはもうちょっと丁寧に考えなければ行けないことですね。

 ドゥルーズ=ガタリの批判というのは、このような欲望のメタファー化への批判です。ハンス少年が「馬かっけ〜」といったとして、それは馬がかっこいいからであって「馬は父親のようにかっこいい」ではない、と。それはまさにそのとおり。でも、分析はいつもその人が言った言葉の文字通りの意味を疑って、揺るがせて、あちこち解釈しては(解釈機械とは言い得て妙です)引きずりまわして、結局はパパママボクのオチにたどり着くまで容赦しない、と。

 ここだけみれば実にもっともなこの解釈、実に人口に膾炙して流通しましたが、ここにはひとつ、ドゥルーズ=ガタリは当然知っていた前提を再度確認しておく必要があります。そもそも欲動は固着するということです。でもって、ハンナ・シーガルがその論文「象徴等式」で示すように、精神病圏の患者さんたちこそが、たとえば「ニキビの痕にできた穴=ヴァギナ」のような、メタファー化をいっさい伴わない言語活動を営んでいるという事実です。たとえばボリス・カーノフ主演の映画「フランケンシュタイン」で、この怪物はそのロジックで行動しています。少女と花を川に流して遊んでいた怪物は、少女を川に流してしまいます。少女は花のように美しい、からではありません。少女も美しく花も美しいなら少女は花だから。だから川に流すのです、花を流したのと同じように。

 さて、問題はここ。この固着、それをどう解釈して、どう扱うかです。ドゥルーズ=ガタリの賭は、メタファーという解釈機械に掛けることなしに、本来分裂症的な運動はそれとはまた違うさまざまな自由な出会いと連結が可能であるはず、というところにあります。では、精神分析は?解釈機械による流動化、というその目標は、結果的にパパママボクに、そしてファルスという特権的器官に固着させているだけではないのか、と。

 じつはこの対立、ラカンのとある比喩がものすごく平たく説明してくれています。ラカンシニフィアン、父の名というシニフィアンをgrande route、街道といか、まあ幹線道路にたとえています。街道はコミュニケーションの道。その回りに街が出来、人が集まり・・・セミネールの第三巻、第22章から引用しましょう。


「街道というものが無かったとしたら一体どういうことになるでしょう。つまり或る地点から或る所へ行くのに、小路に小路を継いで、つまりシニフィカシオンの集団毎に少しずつ異なる様式をひとつひとつ継いで行かなくてはならないとしたらどうなるでしょう。この点からあの点へ行くには、網のさまざまな要素の間で選択することになりますし、便宜上とか、気紛れとか、単に道を間違えたとか、様々な理由であの道この道を辿ることになるでしょう。」

 ドゥルーズ=ガタリならなんというでしょうか。そう、回答はあの「子供の地図」です。客観的な縮尺で描かれるのではなく、良く通うところは近く大きく、知らないところはたとえ近くでも遠く小さく。小径経由では時間がかかる、迷子になる、でも、その小径を電子の速度で突っ走ることが出来たのなら?シニフィアンの街道が、いかにも中央集権的な道路政策の産物であり、ハイウェイをスポーツカーで飛ばすのが趣味だったラカンの御成道に相応しいものです。でも、小径をゲリラ的に、リゾーム的に駆け抜けるすべを見つけることが出来たなら?

 そんなわけで、両者は同じ問題に対する二つの解決を模索していたことは確かです。一方で、ラカンシニフィアンの戯れという概念から、後年のララングの論理にいたるまで、このシニフィアンの小路というものを無視していたわけではまったくありませんでした。他方、ドゥルーズ=ガタリの論理は、ある意味ではすでに実現されたものとなりました。しかし、そこには代償が伴います。結局の所、それは標準化策定委員会の圧政から、デファクト・スタンダートの横暴へと姿を変えたにすぎないものであったことが。圧倒的な流れの自由さ、速さ、強度は、雪崩を打ったような「事実上の標準化」を、もたらします。いきおい、その権威は法を欠いた無軌道なものになります。意味を欠いた掟としての超自我へ。もちろん、それが必然の帰結であったというわけではない、のは確かです。そういえば、その昔「アンチ・オイディプス」を読んだ吉本隆明が「これはファシズムだ」といったそうですね。また、「帝国」のアントニオ・ネグリも「構成的権力」のなかで、このファシズムとの一線を何処に引くかに苦心しています。

 この問題に対する回答は、ほんとうにどこにあるのか私には今のところ分かりません。ヒントはいつか、たとえばそれがこのようなルーチンにならないよう、ガタリがラボルド病院で行っていたような実践面での繊細な努力を、どう理論化していくか、あるいはフランソワ・トスケルの仕事の再評価など、もっともっと繊細なところから攻めていく必要がありそうな気はします。難しいですね。

 それはまた、同時に、ラカンにララングの論理を強いることになった、なにか精妙な動きを、その論理の展開の中から探り出す必要とも、同じ水準にあるのでしょう。

 たぶん、この二つは、最初の問題に再び戻って再合流することになるでしょう。それは、たぶん昇華という問題。でも、これがまたわからんのです。。。