逃走するキノコたち

 さて、またしてもちょっと間が空いてしまいました。

 もう何をやっていたか忘れそうですが、いちおうわれわれがやっていたのは、レオ・シュトラウスホッブズ政治学」(添谷育志、谷喬夫、飯島昇藏訳、みすず書房、1990)。うん、いくらお金があっても、覇権を握ってても、きーのこにんげんじゃあねえ、ってはなしでした。

 今回は、レオ・シュトラウスにしたがって、まとめに入りましょう。ホッブズの二つの革新があると。その一つは権利の法に対する優越であり、もうひとつは、主権という理念の十全な重要性の認識である、と。今回は(というよりレオ・シュトラウスの議論の都合上)後者はそれほど展開できませんでした。またいずれ別の本から取り上げましょう。
 それはともかく、この二つは直接に関係し合う、とレオ・シュトラウスはいいます。古代においては、このような近代の問題と類似する問題設定が別の形を取りました。それは、誰が支配すべきかという問いだったのです。それに対する答えは法でした。なぜなら、法は理性的であるからです。かれらには支配者たる権利がある。一番理性的な奴が支配者だからです。

 しかし、理性の支配に対する疑いが差し挟まれるようになって、はじめて主権が問題として浮上します。この世界では、人間の間に理性の差異が存在することは、前提条件として否認されねばなりません。なぜなら、自然によってすべての人間は平等に理性的であるからです。平等に非理性的とも言えるけど。というか、お互い自分が一番理性的と信じている奴らのあいだで、互いが互いを説得しきるだけの力を持った真の理性者が存在しない、それがホッブズアイロニーです。それゆえ、相互に平等である人間の間で、誰が支配する権利を持つのか、これまでの、古代の考え方じゃ役に立たないじゃん、どうしよう?ということが問われねばならず、そのときはじめて、主権の問題が重要となるのです。理性が無能力であるが故に、理性を主権的権力によって代替させねばならず、そのとき理性的な自然法もまたその尊厳を喪失し、死の恐怖によって導かれた自然権が取って代わるのです(192-194)。

 ですから、この二つの革新の基礎、それをもたらしたホッブズ的転回が、理性主義からの逸脱であるということは明瞭です。その前提となっているのは、理性が無力であるという信仰であり、もっといえば情念と構想力の解放である(195-196)、そうレオ・シュトラウスはまとめます。だからこそ、ホッブズの議論は、まずもってなにより、情念が不信を抱いて取って代わろうという気を起こさないような諸原理を基礎に据えることを模索するのであり(127)、それゆえ情念の研究とは、規範そのものの認識の土台になるべきものなのです。その結果、暴力による死への恐怖のなかに、情念を納得させる政治論の基本原則が見いだされました。それが、自然権として特徴づけられる基本原理です。

 そして、自然権をもとにして、こんどは自然法の根拠づけへと進むことになります。しかし、ホッブズ自然法の核心は「各人がそれぞれ自分の判定者たること、自分の設計者たることをやめよということ」とされています。平等に理性的というか平等に互いを非理性的と罵り合いつつ誰も相手を論破できない状況では、何をもって危険と見なすかで判断が分かれることが紛争原因である、というのがホッブズの基本着想だからです。
 そこで、代表者の中に、人間は(自然的個人として)、同時に現前し(彼らが代表を構成する)かつ不在である(代表が人間に取って代わる)というかたちで存在し、そうして構成された代表者は、自然法を客体化し、理性で計算し、諸個人の期待を現実化することになるのです。それが人工社会身体リヴァイアサン、ということになります。



 というわけで、星の王子様をマクラにしたこの話、結局あんまりメルヘンな方向には進まず。。。人間には死だけが現実だ、したがって真性に現実と相関した認識はすべて死への恐怖を経由する、したがって合理的推論の基礎にあるのは死の恐怖以外にない、という、ハイデッガー的な「死へ向かう存在」のパロディーのようなシュトラウスホッブズ解釈の基調を確認しつつ、平等に理性的ないし平等に非理性的な諸個人の間ではその解決を決することができず、またそれゆえ近代においては古代と違い、原則的には法は停止状態にあり各人の自然権の主張だけが残存し、という、ある種の理性に対するニヒリズムを経て、主権という問題が浮上するのだ、というところまで、いちおうフォローできたかと思います。


 理性の否定と、情念と想像力の全面的解放。その結果として、唯一の現実は死だけとなる生き物。己の虚栄心から来る無限の自然権の伸張を抑制するだけの理性はないが、恐怖の回避、なかんずく、予想不能の恐怖よりは予想可能の恐怖のほうがマシという程度は計算できる程度の理性はある生き物。

 ある意味でこれはとっても暗い生き物ではあります。そして、その初期条件を設定すれば勝手にできあがるリヴァイアサン。しかし、ホッブズ、ある意味でかれはとってもラディカルであり、それゆえ骨の髄まで自由主義者だったということは付言しておかねばなりますまい。まあそもそもこのリヴァイアサンだって、いっさいの義務や超越的な法ぬきで、内在的かつ自発的に生成していくもの、という絶対条件を満たすように構想されているのです。徹底した内在主義と自発主義。初期条件にちょっとインチキがある、という指摘もしては見たいけど、しかし、この初期条件が近代の初期条件である、というシュトラウスの主張に抵抗するのは、なかなかつらい。

 さらにいえばホッブズによれば、たとえばお国のために死んでこい的な共同体からの死の要求資格は、最小限に制限されています。脱走兵だって、不名誉ではあっても不正ではない。国家が個々人に要求できるのは、ただ、条件付きの服従、つまり、個々人の生命の救済と維持に矛盾しない要求しかできないのです。自分の生命を賭する義務はありません。死は最大の悪だからです。だからこのリヴァイアサン、シュミットではありませんが、意外に骨抜き。まあすくなくとも、独裁者に権力を譲り渡した全体主義的なイメージは、ここにはありません。ちょっとはあるけど。ある意味なにかのために死ぬなんてまっぴらという近代的な根性のなさとも言えますが、それも含めて、たしかに、近代はここにある、といってもいいのかもしれません。