2007-01-01から1年間の記事一覧

唯フン論、あるいはヨーグルト入りカレーライス?

さて、ここのところ、赤ちゃんのうんちとおっぱいを考えながら、話を対象aと唯物論、というと言い過ぎですね、まあ物質主義、くらいでしょうか、まあそういうところまで展開させてきたのでした。 たとえば、ラカンの前回冒頭に掲げた引用箇所にもあるように…

意志の過剰

「思考を意識と同一視するなら、思考を物質の進化から説明することはさほど難しいことではありません。物質の進化から説明するのが難しいこと、それは端的に「ホモ ファベール」、つまり生産と生産者です。 生産は独自の領野です。つまり、それはシニフィア…

初夏の対象a

さて、ほとんと3ヶ月ぶりの更新になった前回の記事では(いや、4月からいろいろ新しい仕事が入って本当に大変だったのです。世間様的にはふつうの仕事量なはずではありますが。。。)とある初夏の一日、わたくし、3ヶ月の赤ちゃんに会いに行く、という話をしつ…

ぶっとい前足は

大きくなる証。 と言っていたのはマンガ「動物のお医者さん」でしたが(言われていたのは幼犬時代のハスキー犬のチョビ)、人間の場合は赤ちゃんがどうだったかはともかく、前足、もとい前腕がぶっとくなるのはお父さんになったとき、という印象があります。 …

法悦の詩、詩人の魂

さて、前回は、イヴ・ボヌフォワ「バロックの幻惑 : 1630年のローマ」(島崎ひとみ訳、 国書刊行会、1998)を取りあげて、カント的な「表象の生産者」としての主体の誕生する前に、まずはルネサンス的なミクロコスモスの崩壊があり、そこで生じる虚無と、そし…

階段落ち

「形態の遊びやアナモルフォーズを始めとする手法へのバロック的回帰は、芸術的探求の真の意味を再度確立するための努力である、と私は思います。芸術家たちは線の特性の発見に没頭し、どう考えてよいか解らないところにあるもの、つまりまさしくどこにもな…

雪月花

春の宵の月に浮かれていたのが二日前、今日は今日とて霧雨のような粉雪の舞うろくでもない一日だったわけですが、皆様いかがお過ごしでしょう。 さて、前回は坂部恵先生の「ヨーロッパ精神史入門 カロリング・ルネサンスの残光」(岩波書店、1997)をとりあげ…

遠く離れた月下界で

あまりにうららかな陽気に満月と、実に素晴らしい一日を、例によって河原でぼうっとしながら満喫していたわけですが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。 こういう日は、寒さによって隔てられていた自分と自然が、微妙に境界線をなくしますし、ついでに意識…

スピノザ的構成主義?

というわけで、前回からカッシーラーの「認識問題2-1」のスピノザ論を追ってきたのでした。そしてスピノザの最初期の草稿「短論文」では、なんとも興味深い、認識における絶対の受動性が描かれていることをみてきたのでした。そう、前回最後に引用したカッシ…

お皿のうえの肉まん

さて、流れ流れついでに、こうしたルネサンス哲学の系譜の流れをカッシーラーせんせいに従ってもうひとつだけ追ってみましょう。それはカッシーラーせんせい扱うところのスピノザ。もはや潜勢力というテーマとは関係なくなりつつありますが、いや遠回しに言…

エロスなインストール

さて、前回までは、ニコラウス・クザーヌスの包含complicatioと展開explicatioをまとめたカッシーラーを引用しつつ、流出論のアポリアである「なぜ流出せねばならないのか、そしてそんなにも強烈な断絶があるのなら何故それは起こったのか」という問題が、中…

メディア型人間

例によって話が流れ流れてきてしまいましたが、ここで前3回までの話をいちおうまとめ直しておくと、問題なのは個人の潜勢力の有効な開発(搾取?)でもなく、さりとて他人からエネルギーをもらうというわけでもない、そんなかたちの潜勢力というものはありえな…

チャンス・オペレーション?

さて、そうしたわけで、ここまでで問題なのは、まずは潜勢的なもの、という概念であることは想像がつきます。 ここでむずかしいのは、とりあえずアリストテレスの可能態と現実態には、見た限りのところあんまりこうした他者との関連性がない、ということでし…

バケツプリン

前回は、いくつかの庶民の生活のささやかな側面から具体例を拾ってくることで、もろもろの欲が可能態から現実態に変化するとはどういうことであるかを考えてきたわけでした。人間には食欲がある。そしてある日ある時お腹がすいてお腹がすいてたまらなくなる…

夏みかん

すこしまえの、ある日のことです 研究室の誰かがカップ焼きそばを作り始めました。ご承知の通りあの匂いは強烈です。というより、下品なほどに食欲を惹起するというほうが良い言い方でしょうか。べつだんそのときお腹がすいていたわけではさらさらないのです…