お皿のうえの肉まん

 さて、流れ流れついでに、こうしたルネサンス哲学の系譜の流れをカッシーラーせんせいに従ってもうひとつだけ追ってみましょう。それはカッシーラーせんせい扱うところのスピノザ。もはや潜勢力というテーマとは関係なくなりつつありますが、いや遠回しに言えば関係あるかもしれない、というかあるのです。というわけで、それがうまく示せるといいなあと思いつつ、今回はエルンスト・カッシーラー「認識問題 : 近代の哲学と科学における 2-1」(須田朗、宮武昭、村岡晋一訳、みすず書房、1996)から第五部第一章「スピノザ」を扱ってみましょう。

 なんで?って話になりますが、ひとつにはこのカッシーラーの解釈、ある意味でスピノザ解釈のひとつのスタンダードといっていいからです(というほどスピノザ研究史知らないけど)。例によって例のごとく見通しのよい彼の議論は、たとえば日本の研究書では清水禮子「破門の哲学」(みすず書房、1978)の図式がほぼそれを採用していますし、またネグリの「野生の異形」(野生のアノマリーと訳す方が多いのかしらん)でも特に第一章、第二章あたりでその影響がはっきりあらわれています。この本の初版が1907年であることを思うと、やはり先駆的な業績と言わざるを得ないでしょう。にもかかわらずタイトルからも分かるようにテクストじたいは広範な哲学史の一章を占めるに過ぎませんし、長さも本文は40頁ほどです。素晴らしい。

 で、なにゆえこの話をこの流れついでに持ってこなければいけないかというと、それは単にカッシーラーつながりというだけでなく、カッシーラースピノザルネサンス哲学の後継的な位置づけとして理解しているからでもあります。
 どんなところが、って話ですが、ここでまずカンパネッラの「形而上学」を思い出してみましょう。そこでは「直観的認識とは一方が他方になるような内的一体化」であり、すべての知は自我がおのれに対置された対象に移行しとけ込むことだとされていました。つまるところ、認識とは認識される対象との同一化だったのです。今だったらSFの設定にしてもいいくらいとっぴな気がするけれど、まあこの当時はそうでした。だからこそ鏡というのが知性のメタファーだったわけですし。

 しかしまあ、っつうことは、何を認識するかは慎重に選ばねばなりません。変なものに化けちゃったら一生の不覚ですものね。もうちょっと哲学的に言うと、変わりやすい偶然的客観に向けられれば知は儚い不確かなものになり、最高の永遠の存在を捉えれば確実な財産になる、と。それゆえに、神への愛なくしてはすべての存在は無に帰してしまうとされたのです。愛と認識と同一化、という一連の流れですね。ラカンなら「その人のやろうとすることを知っているということは、愛とはほど遠いのです」というのでしょうが。

 もうひとつの点はといえば、それは前回クザーヌスのはなしでもしたとおり、合理的推論をどれほどすすめても有限な存在の域を超えて無制約なものにたどりつくことはできない、という前提です。だとするなら、むしろ無制約なもののほうがわれわれ自身を捉え、われわれに自らをその全本質において啓示するのでなければなりません。まあ、ゆうたら神様待ちです。


 こうした二つの前提を踏まえて、カッシーラーはまず「神・人間および人間の幸福にかんする短論文」を分析します。登場の経緯としては色々あったこの本(存在についての証言はあったものの遺稿集にも収められておらず、19世紀の後半に二つの写本が出現して知られるようになった)ですが、スピノザの著作としては最初期にあたるこの本は、いろいろな点でとても面白いものです。
 まず、その立脚点となるのは、客観そのもののほうが、知性へと直接的な顕現することで認識が生じる、という点です。よく知られているように、今日では客観的と訳されるobjectumですが、このころまではむしろ想念の対象という意味で、なにも物質本位的なニュアンスはありませんが、ちょうどそんな感じのままで。いつもこの話を聞く度に、心の中は電子レンジか何かのように、そして下にあるものとしてのsubjectumがなにやらお皿かなにかのようにくるくる回っていて、そのうえに、objectumという肉まんかなにかがぽんと放り込まれるイメージを持つのですが、これは季節柄でしょうか。いや、コンビニの肉まんそんなに買わないけど。。。まあいずれにせよ、「世界像の時代」でハイデッガーが言うように、なにか外にあるものをひっつかんでこい!みたいな対象とその認識の時代として語られる近代からはちょっと遠いお話しです。

 ですから、自我のうちに知を生み出すには、外的対象が自我を捉えるのでなくてはなりませんし、さらにまた、魂が獲得する洞察の価値は、魂が認識を通じて融合し合一する客観によって決定されることになっていますから、理解するとは一貫して「純粋な受動」と考えられねばなりません。カッシーラーはこうまとめます。

「つまり、われわれがある事柄についてなにごとかを肯定したり否定したりするのではなく、むしろ事柄そのもののほうが、われわれのなかでおのれについてなにごとかを肯定したり否定したりするのである。意識は、外からももたらされる結果を受け取るだけである。」(68)


 まあこういうところがスピノザフロイト、といわれるゆえんなのでしょう。フロイト本人は、スピノザとの親近性は強く感じていたことを書簡に書き残しているようですが、それが学説史的なレベルでの話なのか、ユダヤ人としての経験のレベルなのか、それはまださだかではありません。スチュアート・ハンプシャー の『スピノザ』(中尾隆司訳、行路社、1979)にその辺の軽い指摘がありますし、上野修せんせいが「精神の眼は論証そのもの」のなかで「知性改善論」のなかの「精神の自動機械」ということばをきょうちょうしていらっしゃるのも、直接フロイトの言及はないものの、そのあたりを踏まえていらっしゃるようには思われます。

 ともあれ、知性も意識も恣意的に考え出された一般的な類名辞でしかなく、本当に知られ与えられているのは肯定と否定、欲求と忌避といった特殊な個別作用だけであるとされるようになります。また、思考と延長という二つの属性の区別は、両属性がともに力として特徴づけられ、根底に潜むある同一の自然力の異なる表現形態に過ぎずだからこそ互いに影響するとして無化されてしまい、こうして、真と偽の価値的区別も絶対的意味を失うことになります。


 さて、次回はこうしたスピノザの思想がどのように変遷していったのかを、カッシーラーの文章に沿って追っていきましょう。