2004-12-01から1ヶ月間の記事一覧

坊主憎けりゃ袈裟まで憎い

「子供における「所有すること」と「存在すること」について。子供は同一化、つまり「私は対象である」によって対象関係を表現することを好む。「所有している」はそのふたつの中ではより後であって、対象の喪失の後で、対象は「存在すること」に後戻りする…

出会い系ファルス

さて、われわれはここまで二回、愛の文字あるいはラブレターについてのラカンのご託を拝聴してきたのでした。 ここまで見る限り、愛の文字は、二つの主体の間の関係の不可能性、書かれないことを決して止めないその性格が、何かを、あるいはあるひとつの「真…

愛の手紙

昇華。この言葉、精神分析のなかでももっともポレミックなものです。しかしいちおう、この文章、前回に引きつづき、愛と壁と落書きとについて論じるべきものですから、長くなるのは困ります。ここではとりあえず一番簡便なバージョン、つまり、ラカンになら…

神の落書き

メネ、メネ、テケル、パルシン なんのこっちゃという話です。でも殺虫剤の名前ではありません。歴史上記録されたもののうち最も早い時期に書かれた落書き・・・でもありません。 その昔バビロンの王様ことネブカドネザル、のどら息子が酒を飲んでいたときの…

すべては薄明の中に

「すべて」。フランス語だとtout。この言葉には、いろんな意味があります。 そして、この「すべて」。哲学的な伝統だと、どうも「1」という数字と仲良しです。なにせ、すべて、というものが存在するなら、それは当然1です。世界のすべて、があるとすると、当…

大失敗

主体無き知、これは逆説でしょうか。 もちろん、無意識というからには、自分が知らない何かの知があるんでしょ、ということくらいはすぐに思い浮かびます。でも、問題はこれをどう捉えるか。無意識とは、英語でもドイツ語でもフランス語でも、そして幸い日本…

転失気(てんしき)

本能を知を伴わない認識とするなら、フロイトのそれは認識を伴わない知であり、古代の奴隷のように、自らの死刑宣告書を自らの頭部に入れ墨され、それと知らずに届けているようなものである。(Ecrits, p.803) ここのところ、主体なき知、というネタで引っ…

僕の瞳に乾杯?(2)

さて、前回はディーター・ヘンリッヒ 「フィヒテの根源的洞察」(座小田豊・小松恵一訳、法政大学出版局、1986)を元ネタに、「主観性の傲慢と暴虐」の権化と見なされてきたフィヒテが、以前論述した後期においてのみならず、比較的初期の段階から既に、そうし…

僕の瞳に乾杯?

まさにこれなり。ウラニアの眼に、その深くして 澄み渡り、青く、静かで、汚れなき光の揺らめきに、 私が静かに見入ってより、そのときから、この眼は、私の深みにやすらい、 そして、私の存在のうちにある。−永遠に一なるもの、 そは、私の生において生き、…

知る者無き知?(2)

「自我が思考され、これによって初めて自我の存在が思考に与えられる。」(第19巻57頁) さて、前回から我々はフィヒテの最晩年の講義『意識の事実』から、生の自己運動ないし自己発現としての、力の発動としての思考作用と、そのなかでの自己直観というある種…

知る者無き知?

その昔、マルクス先生はいいました。「フィヒテ流の哲学者のように、我は我であるといって生まれてくるわけではないのだから、人は社会を鏡として云々」さすがに悪態をつかせれば右に出るものはないという名手だけに、見事な切れ味です。 この一節、結構有名…