神の落書き

 メネ、メネ、テケル、パルシン

 なんのこっちゃという話です。でも殺虫剤の名前ではありません。歴史上記録されたもののうち最も早い時期に書かれた落書き・・・でもありません。
 その昔バビロンの王様ことネブカドネザル、のどら息子が酒を飲んでいたときのこと。突如現れた指が壁にこんな落書きをしたのだそうです。ちょっとしたホラーですね。
レンブラント「ベルシャザールの饗宴」


その時、人の手の指が現れて、ともし火に照らされている王宮の白い壁に文字を書き始めた。王は書き進むその手先を見た。王は恐怖にかられて顔色が変わり、腰が抜け、膝が震えた。

 これが旧約聖書のネタでなければ、いまでもホラー映画の定番として使えそうなシーンですが、まあそれはさておいて。王様、とりあえず「なによこれ」というわけで、預言者ダニエルを呼びにやります。ダニエル先生はこう解釈して曰く、


メネ、メネ、テケル、そして、パルシン。
メネは数えるということ。神はあなたの治世を数えて、それを終わらせられたのです。
テケルは量を計ること。あなたは秤にかけられ、不足と見られました。
パルシンは分けるということ。あなたの王国は二分されて、メディアとペルシアに与えられるのです。

 果たしてこの予言は成就した、ということなのですが、それはまた別の話。今日はこのネタを好んでいたとある精神分析家ことジャック・ラカンさんの小ネタにまつわるさらなる小ネタ。

 ラカン先生、壁が好き?だったのかどうかは知りませんが、その昔この詞に大いに感興をそそられたらしく、自著に引用していました。


Entre l'homme et l'amour,
II y a la femme. Entre l'homme et la femme,
II y a un monde. Entre l'homme et le monde,
II y a un mur.
(Antoine TUDAL, in Paris en l'an 2000.)

男と愛のあいだ
そこには女がいる。男と女のあいだ
そこには世界がある。男と世界のあいだ
そこには壁がある

 引用はエクリの289ページから。
 しかし、そこは散文的に図示してみましょう。順番から行くとこういうことでしょうか


男|壁|世界|女|愛

 ねえねえ男から愛まで果てしなく遠いよ?と、文句の一つもつけたくなってしまいます。しかも壁を越え、世界を越え、女にたどり着いても、愛はまだその彼岸。もう号泣するしかありません。ラカン先生があとあと「男と女の間には、何らの関係もないrien a voirのだ」(1968.3.27)といってしまいたくなる気分も分からないではない感じ。

 とはいえ、この時点でラカンは、何をもって「関係がない」といっていたのでしょうか。ちょっと長いですがその箇所をまるまる引用しましょう。


こういうこともできるでしょう。『女性に押しつけられるもの』というふうに。フェミニスト風の復権要求をしているように思われるかもしれませんが、そう信じてもらっては困ります。もっと広いものです。女性に押しつけられるものというのは、構造の中にあります。性的行為というものの主観的なドラマ化の中で、女性を示し、女性に対象aの役割を押しつけるものは、その構造の中にあります。問題のものを、つまりくぼみを、空虚を、この中央に開いた欠如というものを、女性が隠している限りにおいて。そして、これについてはこうもいうことができるのでしょう。これは私が象徴化しようとしたこと、ですが。男と女の間には、何らの関係もないrien a voirのだと。ここで私が使った言葉を覚えておいてください。言い換えれば、女性の側には、この対象aの機能を引き受けるなんの理由もないのです。端的に、この場合、つまり女性の享楽と、それが行為との関係で保留される、というときに、詐欺の力を感じ取ることができる、ということだけなのです。しかしこの詐欺とは女性の詐欺ではありません。何か別のものです。これはまさしくその場合、男性の欲望の成立によって押しつけられたものです。男の側にとっては、見いだされるものは、知以外の何かを目指すことの不可能さ以外の何ものでもありません。何らかの性の知、それはどこかにはじめからあり、我々に発達論的な無駄骨を折らせることになりました。男の子でも女の子でも、万事がとある感覚にとらわれ、方向付けられるということはありません。到達すべきは、性の知であり、これが問題なのです。それは人は異性の知を持つことは決してできないということです。性の知ということに関しては、男の側にとっては、女性の側よりずっとやっかいです。(1968.3.27)

 このくぼみ、空虚、女性の向こうには、それしかない。でも、男たちは愛をそこに見出します。詐欺でしょうか。いいえ、それは男の勝手。自業自得です。しかし、男たちはそのために知を紡ぎます。
 この知、ラカンはその一つを宮廷愛、に見て取っています。アーサー王の騎士ランスロットとグィネヴィア王妃でも大川栄策の「さざんかの宿」(ん、あれは男女が逆か)でもなんでもいいのですが、「美しい貴婦人に叶わぬ恋をした」というのは、ある時代に定番の題材となりました。ラカンはそれについてこう語っています。「性関係に障害をもたらしているのは私達だというふりをしつつ、性関係の不在を補う極めて洗練されたひとつの方法」(seminaire20, p.65)

 そう、ですから、良くある批判「おまえら手が届かない、いろんな障害があって・・・、とかいうけど、ホントは自分でその障害を勝手に設定しているんだろ、それでチャレンジした気になっているんだろ」という、対強迫神経症者用秘密兵器はここではも一つひねり不足。「自分で障害を設定している」というのも別に「ホント」ではない、それすらひとつの「ふり」「よそおい」でしかなく、その裏にあるのは偽装工作だ、ということです。つまり、女性に関する知としての宮廷愛は、女性そのものを通じて、その彼岸の愛を創造する、つまり女性という枠の中の空虚に愛という絵を描き出す昇華の行為であった、ということになるわけですね。

 では、次回はその昇華にちょこっと触れた上で、この壁の落書きについて考えていきましょう。