性器の独占的排他的使用権

 それでは、女性と見せかけの話、第三回目。前回までは、女性の「見せかけ」が行われる空虚の場、というところまで話を進めてきたのでした。ここで、セミネールの第18巻の段階から、20巻に至る過程で、見せかけという用語がその出典たるジョアン・リヴィエールの論文で扱われた「ファルス」という問題から、さらに一般化されたものになり、それゆえに男女の性的関係というより広範な範囲を覆うテーマの中で扱われるようになった、というところを見ていきましょう。でも、まずはゆっくりと、くぼみの話から。

 そう、思い起こす方も多いかと思いますが、この空虚、くぼみ、欲動というテーマは奇妙なほど昇華のテーマによく似ています。このくぼみ、たとえばラカンセミネールの第七巻第九回講義第一節で扱ったメラニー・クラインの報告を思い出しても良いでしょう。患者はある抑鬱的な症状に悩む女性です。画家である義兄の絵が飾られていた壁。その絵を売らなければならなくなって、ぽっかりと空いたスペース。この空間は患者のメランコリー性の抑鬱を進行させました。そこで彼女は、ここに素人ながらも自分で絵を描いてみようと決意するのです。できあがった作品を見た義兄は怒りました。なぜでしょう?そう、この絵が素人の絵のはずがない。ベテランの芸術家の作品以外ではあり得ない。もし君が書いたというなら俺だってベートーヴェンのシンフォニーを暗譜で振れるね、と。

 ラカンの中期の段階の、女性のファルスへの化身、という問題は、こうして、非常に昇華と似た問題設定の中で語られるようになります。少々長いですが、以下の引用箇所はここまで見たことのまとめになるでしょう。
「もし《他者》の享楽の周りに基礎づけられることになる何かがあるとしたら、それは我々が語ってきた構造が、それでも今日贈り物という幻影を生じさせることになる、ということです。彼女がファルスをもっていないからこそ、女性の贈り物は存在ということに関しては特権的な価値を持つのです。そしてそれは愛と呼ばれます。それは私が定義したように、もっていないものを与えることです。愛の関係の中で、女性はいってみれば自己原因causa suiの次元に由来するような享楽を見いだすのです。ここではそれは、実際に彼女が、彼女のもっていないものという形で与えるものが、また同時に欲望の原因でもあり、彼女は彼女自身が純粋に創造的な形で創造したものになるのです。そして、性愛的な幻影のなかで彼女がファルスとなりうる限りにおいて、このことは彼女を一つの対象にします。ファルスであると同時にファルスではない、彼女が与えるもっていないものは、それはその欲望の原因となるのである、ということをいっておかねばなりません。唯一、この故にこそ女性は満足いく形で性器の結合を閉じることができるのだと言うこともできるでしょう。しかしもちろんのことながら、彼女がもっていない対象を与えるにつれ、彼女はこの対象の中に消失していくことになります。つまり私がいいたいのは、/この対象は、男性の去勢という道を通じてのみ、女性を本質的なその享楽の満足の中に残したまま消え去るということです。つまり結局女性は何一つ失わないのです。なぜなら、彼女は自分がもっていないものを提供しただけで、それは文字通り彼女が造りだしたものだからです。そのために、いつでも女性への同一化によって昇華は創造という外見を生み出すのです。」(1967.3.1)


 ですが、問題なのは、このくぼみと、それを埋めるもの、これをどう解釈するか、ということで、ラカンは困ったことに、ここで三つに立場を分離させてしまうのです。
 第一に、ここまで見てきたように、見せかけをファルスに位置づける、というものがあります。これまで見てきたことからもおわかりのように、ジョアン・リヴィエールからドラから、こうした一連の流れはそれを支持するようにも思えます。少なくともセミネール18巻、1971年前半までは、その方向性を示唆しているように思えます。
 しかし、セミネール20巻では、見せかけsemblantはむしろ対象aの位置に置かれています。「存在の見せかけ」(seminaire XX, 87)と。それはわれわれの似姿としての鏡像的な小文字のaが包むもの。つまり、小文字のaは対象aの包みenveloppe、ということになります。これが二番目。
 三番目は、これら二つとはちょっと位相が違います。なぜなら、それはあのくぼみ、あるいは《他者》という穴、ラカンの記号法ではS(A/)という奴が入ってくるからです。これ自身は見せかけとは関係ありません。むしろ、見せかけをそこに招来する場です。
 ある意味では、この《他者》の穴、ないし欠如という問題は女性的なるものそのものの場所といっても良いのかも知れません。それが、最初にわれわれがリヴィエールの話をしながら、仮面の後ろに必ずしも何かあると考える必要はない、と考える理由です。そして、その仮面をつけることを女性に選択させてくれるのは、なにかの偶然的契機が必要なのです。


「ファルスであること、言い換えれば《他者》の欲望のシニフィアンであること、その為にこそ女性は女性性に本質的なある一部分をはねつけるのです。とりわけその見せかけmascaradeにおけるあらゆる属性を。彼女が欲望されていると同時に愛されていることを理解するのは、彼女がそうでないものの故にです。しかし彼女に対するその欲望、そこに彼女は彼女が愛の要求を差し向ける相手の体の中にあるシニフィアンを見いだすのです。間違いなく、シニフィアンの機能によってそこに覆い隠された器官がフェティッシュの価値を持つということを忘れてはいけません。しかし女性にとってその結果は変わりません。それは相変わらず、それは彼女からそれが与えたものを理想的に剥奪する、上述のような愛の経験と、そこで自らのシニフィアンを見いだした欲望とが、一つの同じ対象の上に集中するということのままに止まっているのです。」(ecrits, 694)

性別化の図

 そういうわけで、ラカンが「愛の文字」と題した1973年の講義で、女性の側の対象を、ファルスと《他者》の欠如の両方に分岐するもの、として描いたのでした。そして、《他者》の欠如を、剥奪として受け入れること、同時に性的なパートナーとしての男性の位置にファルスを見いだすこと、そしてみずからが見せかけであること、の三点セットが偶然に訪れる、こともある、のです。ですから、ファルスは男性の中に、《他者》の欠如は女性自身の中に、この図の中では書き込まれています。
 他方で男性の方は、というと、こちらの矢印は対象aに向かっています。つまるところ、これもまた見せかけである、とラカンは言っています。では何の?と聞かれれば、存在の、とラカンは書いていたわけですが、どういうことでしょう。そして、どうしてこれは女性の中にあるのでしょうか。
 ここでは、対象aを、AとA/の引き算の結果、差、というラカンのある時期の考えが役に立ちます。A、他者のなかの主体の位置を決めることを、割り算になぞらえると、それはどうにも割り切れない。


「この割り算問題の答えとして記入された、A/、斜線を引かれたAと、所与のAとの間の差として、あるものを導き出します。それは余りであり、主体にとってはこれ以上は約分することができないもの、つまりaです。このaとは、《他者》の場の中での主体の運命の演算全体を通じて、これ以上割れないものとして残ります。」(1963.3.6)

seminaire X, 189の箇所ですが、Association Freudienneの海賊版とはAをA/とするかで違いがあります。このあたりは口頭の講義の速記録ないし録音では区別しようもないところですので、どちらと見るかは純粋に編者のセンスということになります。ここではAF版に従ってA/と取っています。こういう事情ですので引用は避けた方が良いかもしれません。

 もちろん、女性は《他者》たりえない(だからこそ先ほどから、女性の中にS(A/)がある)わけですが、女性も男性にとっては性的なパートナーである以上、Aとして存在しないわけではありません。La femmeではあり得なくても、une femmeではあり得るのですから。ですが、この存在はもう仮面。その背後には、A/という仮面の裏側の深淵が顔をのぞかせています。
 そのなかで、男はこの差額の部分に自分のスクリーンを、そして対象aとしてスクリーンの文字通りの支え(それはちょうどスクリーンをピンで留めるような)を見つけ出します。文字通り、ひとりの大文字の他者から小文字の他者へ。D'un Autre a l'autre、こちらはセミネール第16巻のタイトルですね。


「見出されたこと、もっともそれはまさに男性の側から見てですが、それは、彼が関わっているものとは、対象aだということであり、また性関係において彼が実現するもの全ては結局幻想に至るということです。・・・『性欲論三篇』を御覧ください。これはまさに、男の場合、そのパートナーにこそ、彼自身を支えるものを、ナルシシスティックに彼自身を支えるものを見出すのだという言明です。」(seminaire XX, 80)