スペインではもう1003人

 さて、前回は女性の本質(?)あるいは男の嘆き節としての「見せかけ」について話をしてきたのでした。


「むしろ彼女は、私が《男》の倒錯と見なしている倒錯へと向かいます。これによって、彼女は周知の仮装に導かれるのです。この仮装は、そのありがたみのわからない連中が、《男》の側について、彼女のせいにしてしまう嘘などではありません。むしろ、「あらゆる偶然のためa-tout-hasard」なのです。つまり、彼女の中にある《男》の幻想が、自らの真理の時とばったり出くわす心構えをしているのです。」(Autres Ecrits, p.540)

 ということは、女性の側はべつに悪意で嘘をついているわけではない、ということです。仮装がルアーだとしたら、それは真理の時との出会いのための準備、仕掛けです。
 ここで、男性が珍しく、終始"L'homme"と大文字の定冠詞付きで語られていることに注目しなければいけません。これ、だれでしょ?おそらくは(たぶん間違いなく)ドンファンです。ではどうして?ということで、まずドンファンの役回りから考えてみましょう。


「女性にとって、自分が持っておらず、むしろ自分がそれになるもの、それが、初めに欲望の対象となるのです。・・・ドンファンの幻想が女性の幻想だとしたらそれは、女性のなかで一つの幻想的な役回りを演じている、一つのイマージュである願望に応えているからです。その願望とは、それを初めから持っている一人の男がいてほしい、ということなのです。」(seminaire X, 233)

 つまり、ドンファンはここで、「少なくともそれを持っている奴が一人はいてほしい」という女性の願望を充足してくれるものとして登場しています。しかし、もっと大事なのは、ドンファンがそれを「ひとりひとり」に対して行うということです。(seminaire XX, 15)
 ちなみに、これに対照的なのが原父の神話、ということになります。原父の神話では、原父はいきなり初めから「すべての女」を所有するもの。つまり、「すべての女」を「知っている」(女を知る、の性的な意味を十分に込めて)と想定される存在です。まあ、死んじゃうんですけどね。それで「すべての女」の秘密は原父が墓の中まで持って行ってしまい、われわれ凡俗の男たちには残されていないのです。それに引き替え、勤勉なことこの上ないドンファンさまのおかげで、女性たちは「いつか出会えるかも知れない」という希望がある、というか、父親とは少なくともその約束をするものなのです。未来という時勢を含んだ全称命題のもつ困難さがここにはあふれかえることになりますが、それはまた別の話。ここでは「男のペテンimpostureに対応するものとしては、女には仮面があります。」(seminaire X, 223)ということだけ覚えておきましょう。
 とりあえずここで問題なのは、女性がこのやっかいな問題に巻き込まれる成り行きです。というのも、先ほどの引用箇所の直前でラカンが述べているように、「もし女性が去勢(-φ)に関わるのだとしたら、それは彼女が男の問題に入り込むことになったからです。それは二次的です。」(seminaire X, 233)ということになるからです。まあこのように関わらないでも良い問題に関わってくださったのはなぜなのか、さしあたり、女性のお節介でも、猫をも殺すという好奇心のせいでもなく、愛ゆえにであると信じたいものですが。


「彼女は、もちろんそれが関係してくることはありますが、ファルスを必要としません。つまりフロイトが強調しているように、分析治療の進展においてしか去勢されていると気がつかないのです。彼女はそれを作り出すだけです。なぜならその享楽は彼女の側にはないと信じるべきではないからです。しかしもし偶然に性的関係が彼女を巻き込んだなら、彼女はこの第三項、ファルスに関わる必要があります。そして彼女がそこに関わるのは、一つはそれを持っていることが確実ではないような男との関係を通してのみです。すべての政策は私が「少なくとも一つau moins un」と呼んでいるものへと方向転換します。」(1971.5.18)

 というわけで、このような努力の元に、「ヒステリー者はこの見せかけの保持者である振りをすることに同意するのです。その見せかけについて私はau moins un、と書きました。」(1971.6.9)ということになります。見せかけの保持者としてのヒステリー。つまり、見せかけとしてのファルスです。
 これらすべては、彼女が「男の問題」に入ってきたことによって生じます。見せかけ、ですからそれは、あるディスクールの中になにかがとらわれることによって、あるシニフィアンが生じてくる、そのポイントであることに他なりません。
 ラカンの古典的な(コジェーヴ経由のヘーゲル的な、というべきでしょうか)定義によれば、真理とは「ディスクールが現実性の中に導きいれる理想的運動の名前」(ecrits, 216)ということになっています。そして、この真理は、「真理、それは見せかけを生み出すことを享楽することです。」(1971.5.18)ともされています。ですから、「ファルスは見せかけによって位置づけられ、強固にされるものとしての性的享楽そのものなのです。」(1971.1.20)ということになります。あるディスクールが現実世界のなかになにかを導入させる、その運動を真理というなら、それはディスクールが「見せかけ」を現実世界のなかに導入することに他なりません。あるディスクールとはその本質からして見せかけを作り出します。それが真理の運動です。しかし、この真理は同時に、享楽という形で縫い止める働きを持っていなければなりません。そうでなければ、見せかけは漂流するだけ。ラカンは、時に「骨」という言葉を使います。骨と言っても核になる、芯になるもののほうではなく、どうも「犬にしゃぶらせておく」ほうの骨。辞書的に言うとjeter [donner] un os、 (不満を鎮めるため)(人)にアメをしゃぶらせる、ということらしいですが、要は鞭と飴の飴ですね。
 だから、この見せかけとは「ディスクールのエコノミーを調整する固有の対象としての見せかけなのです。これがまたディスクールを維持するとまでいっていいのでしょうか。」(1971.1.13)という意味では、ここで導入されたディスクールそのものを調整、維持する項でもあります。こうした一連の流れを押さえておけば、ラカンの次の言及は理解可能なものでしょう。


「真理は見せかけの反対ではありません。真理とはもしこう言ってよければこの次元、あるいはその受け皿を示すために造語をしてかまわなければDemansionなのです。これはいまいいましたが、まさに見せかけのそれの相関項なのです。後者、見せかけの方をこれが支えるのです。」((1971.1.13)

 しかし、ここで哀しいお知らせがあります。このディスクールの運動は、もちろんのことながら、とりわけ性に関係しています。というより、性的関係を可能にしようという試み、でさえあります。しかし、「享楽から思い出されるのは、見せかけが失敗するということです。」そして、その二年後のセミネール、アンコールで性的関係について述べるとき、ラカンは「ディスクールが見せかけ−私のセミネールの一つのタイトルを覚えていらっしゃいますね−からしか出発しないということに還元されてしまうことのない限りでの性関係です。」(seminaire XX, 103)という言い方をします。逆に言えば、見せかけは「すべて」ではあり得ない。ディスクール的な構築物、とりわけファルスはそれ自体ですべての性的関係を構築し得ない。それは性的関係の不在を補うものでしかないのです。「そこには《他者》という穴があります。少なくとも私はそう名指すことができたと思っていました。パロールが、この語の持つ響きに注意してくださいね、取り除く=登録されるdeposeeこと、によって、真理を基礎づける場としての《他者》。そしてそれによって、性的関係の非実在を埋め合わせる契約・・・」(seminaire XX, 103)

 その関係の非実在、それを巡っては、また話がややこしくなるので、別の話としておきましょう。まずここではもう一度18巻の時点に戻ってみましょう。ラカンはこういいます。


「こうお考えください。空虚もまたそこでかたどられる欲動からそれは作られているのだと。さて、ここで享楽から思い出されるのは見せかけが失敗するということです。ここで、現実的なものの中で、ここが大事ですが現実的なものの中で、見せかけはくぼみとして現れるのです。」(1971.5.12)

 それでは、次回はこの「くぼみ」という問題を手がかりに、ラカンセミネールの第20巻あたりから、見せかけの問題にさらに展開を広げていったことをさらに検討してみましょう。