嘘も方便

 その昔、お釈迦様は、女人救い難しみたいなことをいったとかいわないとか、孔子は女子と小人は養い難しと言ったとか、ニーチェは「女の最大の技巧は虚言であり、最高の関心事は、外見と美である。」(善悪の彼岸第232節)とか言っていていたとか、まったく昔から男どもは女性に文句を言ってばかりいたようです。ラカンの「女は存在しないLa femme n'existe pas」は、ある意味この問題にまとめてけりをつけてくれそうな気もしますが、「ひとりの女性が存在しないわけでもない」ので油断ならない、というか、根本的な解決にはなりません。残念ながら。

 誤解のないように言っておけば、チャーチルが言っていたとおり、「女性とはその種の中で二番目に最悪なもの」で、一番最悪なのは「女性がいないこと」。ということで、とりあえずこの前半部分は忘れて頂いて、後半部分「世界で一番最悪なのは女性が存在しないことだ」という部分を、男どもの総意として女性たちには受け入れて頂きたいものです。

 まあ、それはさておき、ニーチェがここで語った「見せかけ」、ちょっと興味深いものです。もちろん、これが悪い意味であるわけもありません。ニーチェほど表面と仮象を称揚した哲学者はほかにいないわけですから。ついでに言うと、このすぐ後で、かつて教会が女は教会について黙しておれと言い、ナポレオンは女は政治に関して口をつぐんでおれといった、ということを引きながら、ニーチェは「女は女について黙っていなさい」とのたまうわけですが、このあたり、どこかフロイトの定義する不可能な仕事を思い出させます。フロイトの定義では、教育と統治、そして精神分析でした。ニーチェ風に言うと、それはもしかしたら教育、統治、フェミニズムということになるのでしょうか。

 まあ、茶々はともかくとして、本題はラカンのいう「見せかけ」の概念。見せかけはsemblantですね。セミネールの第18巻、1971年前半のセミネールは、"D'un discours qui ne serait pas du semblant"と題されているくらいですから、大きなトピックであることは確かです。でも、とりあえずラカンセミネールを頭の方から読んでいくと、結構昔からラカンせんせい、見せかけという言葉が好きだったことはわかります。そして、この言葉はとりわけ女性に向けられたもの。そういうわけで、以前クロソウスキーの『生きた貨幣』を読みながら、ぼんやりこの概念を連想した身としては、その流れでニーチェの称揚する女性像を思い起こしても、不思議ではないのです、と言い訳。


 そりゃあ、動物行動学を見ればわかるとおり、性的行動にはなにかの「見せかけ」は必要不可欠、ということはよく知られています。こちらの方を、想像的な「見せかけ」とすれば、象徴的な見せかけは、「虚構の構造」としての象徴的なもの、といってもいいかもしれません。こちらのほうはベンサム由来ですね。が、それはまあさておいて、やはりここで最初に取り上げるべきは、ジョアン・リヴィエールの"Womanliness as a masquerade"でしょう。簡単に言えば、女性の女性らしさはある種の防衛機制としての仮面であり、その内側には強烈な男性への同一化が隠れている、というとある症例をもとにしたこの論文、ラカンも比較的好んで引用したものです。(そんなわけで、女の人がおばかでかわいらしく、女らしく見えるほどに男は彼女のマッチョさを警戒しなくてはならないわけですが)

 ですから、これをそうした自我理想と理想自我の二重化における仮面の機能(ecrits, 809)と同一視するなら、この機制は以下のようなヒステリー的な機制を理解されなければなりません。


「ですから、ここにこそ、自分が企てた状況の中でヒステリーの主体が果たす根本的な機能の一つがあります。つまり、自分自身が掛け金としてそこに残っていることが出来るよう、最後まで欲望が到達してしまうことを邪魔するということです。ここで彼女は、まあマネキンのようなものの場所をしめるのです。それは・・「見せかけfaux semblant」というものです。ヒステリー者は、・・自分の分身でしかない影、密かに自分の欲望が位置づけられている所となるある女性の間に、そのポジションのキーポイントがある、ということで十分です。この欲望を彼女は見ようとはしないのですが。ヒステリー者は、自分を機械の原動力のような形で位置づけ、時にそれと自ら表したりします。この機械は、この二人の女性の一方を他方との関係で、マリオネットのようなものとして宙づりにし、位置づけることになります。このマリオネットは、彼女自身が$◇aという、自分自身を分身として二重化した関わりの中で、自分自身をそうやって支えてやってくれているものなのです。ヒステリー者はそれでも、自分自身が結局は掛け金となるという形でこのゲームの中に居るのです。」(1959.6.10)

 仮面劇mascaradeついでに言えば、フロイトの症例のドラちゃんことドラもまた、この仮面劇の中にいます。「仮面への同一化という見事なヒステリー的構成物」これが崩れてしまうときが発症の時です。ですから、何が彼女の女性らしさを維持しているのかわからない、というきわめてまっとうな嘆きはさておいて、極力その同一化を崩さないよう丁寧に丁寧に扱うことで、われわれはちょっとは快適に世を過ごせる、かもしれません。勘ですけど。
 さて、ここで、semblantという言葉が、おそらくはもっとも初期段階といっていい時期に、使われています。もちろん、faux-semblantで策略、口実、嘘という熟語なわけですから、それを分けて後ろだけ取り出すのはちょっとアンフェアですが、しかし、そのインスピレーションの源泉を見いだせる、くらいのことは言っても良いでしょう。

 しかし、もちろんそこにつねに男性とのライヴァル関係を見て取る必要があるとは限りません。それは防衛機制なのですから、彼女はもしかしたらもう持っているものを、いないいないばあよろしく隠してみせるためにバカのふりをしているのかもしれませんし、あるいは「本当は持っていないのだけれど、持っていないふりをする」のかも知れません。ラカンのクラカウへ向かうユダヤ人のジョークと一緒ですね。本当のことを言うことで嘘をつく。この場合も、持っていないふりをすることで、相手が勝手に「もしかしたら持っているのかも」と疑ってくれるかも知れません。持っていないことがばれても、「だから初めから持っていないって言ってるじゃない」といわれるのがオチですから、油断なりません。

 ですから、ここでは、仮装が一つの創造行為、無からの創造の行為であることがわかります。でも何の?

 では、次回はそこから考えていきましょう。