2006-01-01から1年間の記事一覧

空いてる?

それでは、もひとつ落ち穂拾いついでに、この光という問題と、それから神と狂気について、「新プラトン主義の原型と水脈」(新プラトン主義協会編、水地宗明監修、昭和堂、2000)の第7章に所収の『イアンブリコスの光の思想について(熊田陽一郎)』をお勉強して…

鼻から牛乳

はっはっは締切が少し延びたざまーみろだわ! と浮かれている場合ではないような原稿の進捗具合のはずですが、試験の前になると部屋の掃除がしたくなるとかほっぽりだしていた漫画を全巻読み通してしまうとか、そういう手合いの人間だった身としては、ちょっ…

神とコラ職人

さて、前回はファラービーのテキストを元に、理性と感覚のあいだの表象能力、という比較的よくある道具立てのなかに、ファラービーではひとつ独自の要素が付け加えられることによって、なんともフロイト的幻覚っぽい面白い機能が組み込まれていることを見て…

アラビアン・ナイト

はい、クリスマス・イブに対してえらい挑戦的なタイトルですね。 さて、忙しいときには本当に仕事は団体さんでやってくる、という愚痴はけっこうちょいちょい書いているような気もするのですが(まあそれだけ普遍的真理なんでしょう)今回は例を見ないくらい…

牛に引かれて

さて、このはなしの最初の回で、パースせんせいはどうにもこうにもイヤイヤながら、このとっぴな一元論に到達してしまったようだ、と書きました。しかし、パース先生も、なにもみすみす牛に引きずられるままに善光寺までたどりついてしまったわけではありま…

一個二個三項思考

さて、こうして形成される第三性について、パースはちょっと面白いことを言っています。もし、アヘンを飲んだ患者が眠るのはアヘンに催眠力があるためである、という命題があったとして、それは無内容に言葉をくり返しただけのスコラ的説明ではない。「それ…

悪意の時間

さて、前回はパースの連続主義と偶然主義から、ある種の時間論が描かれ得る、ということをちょこっと示唆して話を終えたのでした。 この問題について、パースせんせい本人はどういっているかというと、こんなことを言っています。 「時間とは、論理そのもの…

いちにのさん

さて、ここまでは、パースの一元論的な宇宙論を見ていき、その偶然主義と連続主義というところまで話を進めてきたのでした。 まず、世界の原初には、くだんの混沌があります。別な箇所でのせんせいのお言葉を借りれば、「全く不確定な無次元的潜勢態の純然た…

偶然の連続

さて、前回はチャールズ・サンダース・パースを取り上げて、かれが「いやいやながらも」シェリング的な精神と物質の一元論にまでたどりついてしまったあたりを眺めてきたのでした。 まずもってじゃあ、一元論にはつきものの、原初の一者みたいなのはなんだっ…

汚物は消毒だ?

さて、一元論倶楽部の皆様こんばんは、お久しぶりでございます。 一元論ってなんだ、という問があったとして、それにどう答えるだろう、と考えてみると、やっぱりいちばんシンプルな答えは、「宇宙が一つの卵」と考えられているかどうかであろうなあ、と思い…

らんらん卵

さて、前回は山内志朗「天使の記号学」(岩波書店 、2001)から、ドゥンス・スコトゥスの潜在性、そして存在の一義性やこのもの性といった、いくつかの重要な概念を手習いしてみたところでした。 ここでは山内先生ご本人もお書きになっているように、存在の自…

白馬馬に非ず?

創造とは神が本性にその存在を与えることであり、いかなる本性も、それ自体としては普遍性であって、この世界に存在するという意味では実存しない。その普遍性にesseを与え、この世界に実存existereする個的存在者たらしめるのは神である。しかしキリストの…

秘書の秘所を避暑でひそひそ

前回は、クラウス・リーゼンフーバー先生の「中世哲学の源流」(村井則夫 [ほか] 訳、創文社、1995)から「第十八章 知性論と神秘思想 −十三・十四世紀スコラ学の問題設定」を途中まで読んできました。トマス・アクィナスに至るくらいまでは、知性論として(も…

能動知性

さて、前回まで二回ほど、「トマス・アクィナスのキリスト論」(山田晶著、創文社、1999)を読んでいたわけですが、そのなかで本筋とは離れてちょっと気になる一節があります。前回もちょこっと取り上げた箇所ですが、今回はここをちょっと考えてみましょう。 …

無劣化コピー

さて、そんなわけで、「はじめに言があった」 ロゴスは神と等しい神の子であり、そのロゴスが肉をとって我々のうちに住みたもうた。このヨハネ伝の序文により、受肉のイエス、神と同時に人であるイエス・キリストが表現されている、と山田先生はおっしゃいま…

トマト秋茄子

質問者:私の理解したところですと、ラカン理論では、人間の基盤にあるのは生物学でも生理学でもなく言語活動です。聖ヨハネはすでにこう言っていました。「初めに言葉ありき。」それに何も付け加えてはいませんね。 ラカン:ちょっとしたことを付け加えてお…

パンがなければ詩を食べればいいじゃない?

さて、ここまで3回ほど、デリダの「エコノミメーシス」という一風変わったタイトルの著作について考えてきました。 さしあたり、カントの構想力のなかにミメーシスとエコノミーを見てとる、というはなしは、まあデリダにしてはわかりやすくかつクラシックな…

神のパントマイム

デリダの論じるカントにおいては、いわば詩人の想像力ないし構想力のようなものが、神から与えられた資本のようになっていました。この神授説を必要とした理由は、とにもかくにもそこにだけ余剰があるからです。同じように、ラカンの論では、知もまた資本同…

神様ファンド

Economimesis、読んで字の如くエコノミーとミメーシスのごっちゃ煮です。デリダにしてもあんまり芸のない造語ですが、それはさておきましょう。デリダは、判断力批判において、ミメーシスについての全理論が展開される箇所が、第43節の報酬のアートとリベラ…

自分、不器用ですから

楽器を弾かれるかたなら誰しも経験があると思いますが、同じ楽器を弾くひとのコンサートに出かけたかえりに、おもわず自分もうまく弾けるような錯覚に囚われて楽器を弾き始めてしまうことはままあります。 まあそんなわけで、マイスキーのコンサートに行けば…

排除型社会と抑圧型社会(2)

この五回ほど、ランシエールの「不和」を扱ってきました。そして、ランシエールが「メタ・ポリティーク」と「コンセンサス民主主義」と呼ぶものを、前回はこっちで適当に「抑圧型社会」と「排除型社会」という風に提起してみたのでした。 ん?どっかで聞いた…

抑圧型社会と排除型社会

さて、ここ4回ほど(長い)ランシエールの「不和」を取り上げてきました。前回は、共同体の中に本質的に芽生えるものとしての「不和」、その姿の見えない当事者をイデオロギー装置によって浮上させつつ、その当事者に再度「分け前」を与える仕組みとしての政治…

政治と美学

ここ三回ほど、ランシエールの「不和」を扱ってきました。 さしあたり、ここまでの議論で「公正な分配」にだけ正義を限定するのはいかがなものであろうか、という理由も少しずつ見えてきました。たしかに、公正な分配では、そもそもが「分け前なき者たち」に…

振り向かない?

さて、前回、前々回と続けてきたランシエールの「不和」、いままでのところでは、こうして一見平凡な状況設定である不和というテーマを取り出すことで、「同じルールの中にあって、分け前をもらってもいいはずなのにタンメンを食えない貧乏人たち」が浮上し…

おめえに喰わせるタンメンは

さて、前回から、ランシエールの「不和」を取り上げてきました。前回はイントロダクション代わりに「不和」という概念についてちょこっと説明をしたところで話を終えていたのでした。端的に言えば不和とは「聞いてない」ということで、同じルールが適用され…

5分だけでもいい

さて、このブログでときおりご登場いただいているM先生、わたくしにとってはもろもろの学恩ある学兄であると同時に、というかそれ以上にというべきか、大学生活を生き抜くに必要なもろもろの小悪事を伝授して頂いたありがたい先輩なわけですが、さいきんはど…

真理と過剰、あるいは過剰な真理

さて、この三回ほど、フーコーの「精神医学の権力」を論じてきました。前回は、フーコーのいう「真理の計略の次元l'ordre du stratageme de verite」(34)というところで話を終えたのでした。たとえばシャルコーの時代の例で言えば、安定した症状を出す代わり…

真理のストラテジー

さて、前回、前々回と、フーコーの「精神医学の権力」を取り上げてきました。前回は、フーコーが、自らが提唱する「出来事としての真理」の具体例を、精神医学における分利の概念のなかに見て取っている、というところを説明して話は終わったのでした。 この…

カイロス的真理

さて、前回はフーコーの「精神医学の権力」について、読後に残ったちょっとした違和感は何なんだろう、と思いながら、その理由を探るべく本の内容を簡単に整理しよう、というかけ声で終わっていたのでした。まあ、ともあれ普遍的な内容を少しでも含まないと…

フーコーの風向

時折意外だなと思うことの一つに、身近な知り合いの精神科医のあいだで、あまりフーコーが評判がよくないということがあります。 評判がよくないではちょっと言葉が強くて語弊がありますね。すぐに言葉を改めましょう。どうも、ぴんと来ないというか、あまり…