トマト秋茄子



質問者:私の理解したところですと、ラカン理論では、人間の基盤にあるのは生物学でも生理学でもなく言語活動です。聖ヨハネはすでにこう言っていました。「初めに言葉ありき。」それに何も付け加えてはいませんね。


ラカン:ちょっとしたことを付け加えておりますよ。
("Le triomphe de la religion," p.88-89)

 なあんて一幕が演じられたのは1974年10月29日、ローマのフランス文化センターでの記者会見のことでした。ちょっとしたことが何だったのかについては、まあ例によってうだうだとまとめようもないことを話しておられますので何とも言えないのですが。

 それはともかく、確かに精神分析、それもとりわけラカン的な精神分析のもたらすイメージにどこかしらこの受肉のイメージが色濃いということは言えるのではないかと思います。極端なことを言えばそれは、『マトリックス』のネオ君が見たところのエルフの王様、じゃなくてエージェント・スミスみたいなものかもしれません。もともとコンピュータ・プログラムでしかないエージェントさんたちは、リアルな目から見ると文字の集積に見えてましたよね。Welcome to the real world.
 ですが、そこまでやってしまうのはやっぱりちょっと行き過ぎ。精神分析のなかでは、やっぱり言葉と肉がどう結ばれるのか、そっちのほうが難問であって、言葉の一元論に還元してしまうのは、ちょっと安易かもしれませんしね。

 ラカンが晩年に"sinthome"なる、symptome(症状)の同音異綴語を古語から引っ張り出していたのはよく知られています。例によってこのsinthomeを用いて色々な駄洒落かけことばをして遊んでいた、ということですが、その中のひとつに、Saint Thomas、聖トマスがあります。サントーム、サントーマス、うん、似ていなくもない。

 問題は、なぜトマス・アクィナスでなければいけないかということです。サントームと聖トマスを掛けた箇所というのは、サントームのセミネールの14,16,17頁(最近のセミネールは年来のポリシーを変更して索引があるのですね〜)、内容的にはジョイスにあわせて(釣られて?)かけことばをひねり出しているような箇所ですから、別に駄洒落以外の意味はないんじゃないの?と考えることも可能、というか、そのほうがありそうな気さえします。ですから、まあよくわかんないけどこの辺は放っておこう、そもそもトマス・アクィナスについて何も知らないし、ということで、まあ体よく無視しておりました。なにせわたくし、今更言うまでもなく各種多方面にわたって恐ろしく無知無教養なのですが、そのなかでも中世思想に関する無知っぷりは度を超していて、これはもう次に生まれ変わったときの宿題にして、来世で中世思想研究者になることで埋め合わせよう、という研究計画を立てているほどなものですから、この態度もむべなるかな、というところです。

 その怠惰な路線をちょいとばかり変更するきっかけになったのはこちらのThe Passingさんの紹介で心を引かれた「トマス・アクィナスのキリスト論」(山田晶著、創文社、1999)のおかげ。もともと、一般向けに行われた3日間の講演を収録した薄手の本ですが、とても明解です。すくなくとも素人目には。ということで、ここからちょっと受肉という問題を勉強していくことで、精神分析あるいはラカンの言うサントームの概念とトマス・アクィナスの関係についてちょこっとだけでもヒントが得られないか、という見通しのもと、読み進めることにしましょう。