パンがなければ詩を食べればいいじゃない?

 さて、ここまで3回ほど、デリダの「エコノミメーシス」という一風変わったタイトルの著作について考えてきました。
 さしあたり、カントの構想力のなかにミメーシスとエコノミーを見てとる、というはなしは、まあデリダにしてはわかりやすくかつクラシックなスタイルで綺麗にまとまっているのですが、やっぱりデリダらしいおまけは付いてきます。それが吐瀉物という言葉。

 このくだりは、デリダらしいもってまわったレトリックのようにも思えるのですが、どうしても気になるのはそれが非常にベタにメラニー・クラインくさい雰囲気を持っているということでしょう。そういえば、クライニアンの分析家だったという奥様がいらっしゃると聞きますが、このころ、1975年前後には出会っているのだろうか、とか、余計なことを考えてしまうほどです。デリダの伝記的事実はほとんど何も知らないので、なんとも言いませんが。

 さて、吐瀉物のはなしがなんで大事になるのでしょう?デリダ先生、まず口の話から始めます。口はしゃべるものです。でもよく考えたら同時に飲み食いする器官。まあ、まさに自己目的な享受の器官です。
 でも、大事なのは、そりゃ口が言葉を発する器官ということのほう。この言葉、そして言葉から紡がれる詩は、養分のメタファーで語られます。ま、心の栄養って奴っすね。


「詩人は想像力と戯れることを約束しつつ、悟性に養分を与え、諸概念に生命を与えるのである。こうした養分の隠喩は、私がそれをカントに押しつけているわえではない。詩人が戯れつつ、悟性にもたらすのは養分(Nahrung)であり、そしてそのようにして詩人が行っているのは、諸々の概念に生を与えること(Leben zu geben)なのである。このように諸概念が受胎され、生命を授けられるのは、想像力と耳を経由することによってであり、栄養は口から口へ、口から耳へと摂取される。そうした栄養摂取は、それが約束するよりも多くの養分を与えることによって、有限な契約をはみ出し、溢れ出すのである。」(67-68)

 つまるところ、詩は言葉のお食事であって、イデア的に食べられるもの、ということですね。でも、大事なのはこのイデア的なお食事と言うところ。つまるところ、それは「パンがなければ詩を喰えばいいじゃない?」みたいな話であって、直接的な享受の断念があることに代わりはないのです。口をしゃべる器官だと思っているのは飯が食えない貧乏人だけ、みたいな。お金持ちはご飯喰いますから、ご飯の食えない貧乏人は空気でも食ってろと。
 じゃあ、この貧乏人はどうしたらいいのか。空気じゃなくて声の風を食べましょう。それはしゃべること。そして、しゃべった言葉を自分の耳で聞くこと。

 デリダの読者のかたであれば、このあたりはおなじみかもしれません。うんうん、それが音声中心主義という奴で、自分がしゃべった声が自分を今ここで直接に現前すること、これが西洋形而上学の隠れた基盤でなんちゃらかんちゃら。でもよくよく聞いてみればけっこう貧乏くさい話なのですね。今も昔も哲学者は大変ですびんぼーで。
 ですが、これを非常にベタにクライニアン的な、と感じた理由は、ことばが直接的な養分の代用品でしかない、そのうえ、その代用品を自分で作って自分で消費する、ということをデリダが描いているからに他なりません。デリダはそれを喪の作業という精神分析の術語で語っています。そして、自分で作って自分で消費する、あるいは自分の詩を自分の耳で聞く、そうした作業のことを自己触発と。どっちかといえば自分の胃壁を溶かしてミルクにして喰わせるペンギンのお父さんみたいですが。とはいえ、精神分析が教えるように、自作自演とは自己満足の精神的オナニーにはほど遠く、じつに悲哀に満ちたものだと言うことでもあります。いや、オナニー自体悲哀に満ちてますけどね。

 ですが、くどいようですがこの自己循環はそれ自体では目に見えません。かならず、おつりというかおじゃまむしというか、余分なものを排出してしまう。というか、じゃないと目に見えるものにならない。詩の場合で言えば、そもそも詩を載せて耳に届けるべき声そのものもそれにあたりましょう。そして、もし何かが無限の産出を行っているように見えたとしても、実際に目にしているのはこの廃熱を、無限に反復して生み出しているということにほかなりません。資本主義でも無限に増えるのは利息としてのお金であって、それが投資された先の実際の設備や生産品でないのと一緒です。われわれが無限に産出できるのは価値ではなく剰余価値であり、その点でわれわれは既に能産的自然ではなくなっています。

 ラカンが「現実的なものの欠片」としての対象aにこだわった理由もそこにあります。イデア化でもヴァーチャル化でも象徴化でもかまいませんが、それはそもそもが直接的享受の断念によって成立したものであることに代わりはありません。そして、その享楽の断念そのものが自己目的と化します。時によっては、その自己目的化が快をもたらす。しかしこの自己目的なループは決して閉じられることはありません。かならず廃熱を、エントロピーを、あるいは廃物を排出します。現実的に。しかし、自己目的のループ、あるいは享受はそれ自体は見えないものですから、端から見ている分には、そうかこの機械は廃物を生産する機械なんだな!と思われてしまうという皮肉。食事中食後すぐの方は読み飛ばして下さってけっこうですが、まあ、にんげんさまのことを糞袋とか糞製造器と呼ぶのと同じようなものです。

 デリダがここで吐瀉物vomiとして語ったのも、そういうものに他ならないと、私は思います。

「[ロゴス・フォネーの体系]が排除するもの。その作業=労働そのものが排除するもの。それは、消化されるままにならないもの、表象されず、言われるがままにはならないものであり、口例性によって自己-触発へと変えられるままにはならないものである、すなわち、還元しようのない異質性であって、そんな異質性は可感的なものの次元においても、イデア的な仕方においても食べられるままにはならない。そして、それは決して呑み込まれるままにはならないがゆえに−トートロジーではあるが−吐き出されるはずのものである。」(83)

 ここだけ読んでしまうと(というかこの引用箇所以降の記述を普通に読んでしまうと)ああなんとなくデリダ節、自己触発に呑み込まれない異質性がうんたらかんたら、となってしまって、もう読む前から分かったような気になってしまうわけですが、一応こういう長い議論を経ていくと、それなりに違ったものとして見えるようになります。いや、見えるんじゃないかな。うまくいけば。

 ラカンの読者ならおなじみのように、対象aはいくつかの時期にそれぞれ異なった説明の仕方で紹介されています。最初の頃はどうだったでしょう?セミネール第8巻のころは、アガルマの比喩で説明されていなかったではないでしょうか。そして、第11巻ではおなじみの眼差し、声、乳房、糞便という四点セットが。しかし、第12巻以降では、dechet(廃物、目減りした屑)といういいかたをしばしば用いるようになり、第17巻ではエントロピーの比喩も持ち出されることになります。

 デリダのこの論文は、少なからずこのdechetとしての側面を、そしてこの論文と姉妹編となるべき「パルレゴン」はむしろもっとベタに(というかあまりにあからさまなのでちょっと〜いいの〜?という感じですが)アガルマを、それぞれモチーフにしているように、私には思えるのです。