2006-08-01から1ヶ月間の記事一覧

らんらん卵

さて、前回は山内志朗「天使の記号学」(岩波書店 、2001)から、ドゥンス・スコトゥスの潜在性、そして存在の一義性やこのもの性といった、いくつかの重要な概念を手習いしてみたところでした。 ここでは山内先生ご本人もお書きになっているように、存在の自…

白馬馬に非ず?

創造とは神が本性にその存在を与えることであり、いかなる本性も、それ自体としては普遍性であって、この世界に存在するという意味では実存しない。その普遍性にesseを与え、この世界に実存existereする個的存在者たらしめるのは神である。しかしキリストの…

秘書の秘所を避暑でひそひそ

前回は、クラウス・リーゼンフーバー先生の「中世哲学の源流」(村井則夫 [ほか] 訳、創文社、1995)から「第十八章 知性論と神秘思想 −十三・十四世紀スコラ学の問題設定」を途中まで読んできました。トマス・アクィナスに至るくらいまでは、知性論として(も…

能動知性

さて、前回まで二回ほど、「トマス・アクィナスのキリスト論」(山田晶著、創文社、1999)を読んでいたわけですが、そのなかで本筋とは離れてちょっと気になる一節があります。前回もちょこっと取り上げた箇所ですが、今回はここをちょっと考えてみましょう。 …

無劣化コピー

さて、そんなわけで、「はじめに言があった」 ロゴスは神と等しい神の子であり、そのロゴスが肉をとって我々のうちに住みたもうた。このヨハネ伝の序文により、受肉のイエス、神と同時に人であるイエス・キリストが表現されている、と山田先生はおっしゃいま…

トマト秋茄子

質問者:私の理解したところですと、ラカン理論では、人間の基盤にあるのは生物学でも生理学でもなく言語活動です。聖ヨハネはすでにこう言っていました。「初めに言葉ありき。」それに何も付け加えてはいませんね。 ラカン:ちょっとしたことを付け加えてお…