能動知性

 さて、前回まで二回ほど、「トマス・アクィナスのキリスト論」(山田晶著、創文社、1999)を読んでいたわけですが、そのなかで本筋とは離れてちょっと気になる一節があります。前回もちょこっと取り上げた箇所ですが、今回はここをちょっと考えてみましょう。

 山田先生の解説によれば、こうです。まず、言葉を生む神は父Paterであり、そこから生まれた言葉としての神が子Filiusである。しかしそれは二神論ではない。神の本質そのものがそのような構造をもつ、すなわち神が子を産むことが神があるということである、と。
 じゃあそのロゴスというのはどうして生まれたのか。というか、生む必要があったのか。まず、神は精神あるいは知性であるから何かを認識するものです。何を認識するかといえば、神様がわざわざ認識するに釣り合うほどの大物はご本人しかいないわけですから、神は自己を認識する、と。それによって生まれる神の言がロゴスである、となるのだと(70)。

 うむ、なんとはなしにナルシスティックな神様だ、鏡を見ながら「わたしきれい」とでも言ったのかしら、と茶々を入れたくなるところですが、まあ多分神様の場合は鏡、要らないんじゃないのとか、そういう方向に話が紛糾しそうですのでそれはやめて、まず、この自己産出めいたところ、一者からの流出という新プラトン主義と何が違うの?とは聞いてみても良いでしょう。
 山田先生は、プロティノスと三位一体論が違うのは、神そのもののなかにダイナミズムがあり、その動きは父なる神が自分自身を対象化すること、自分自身を見つめることで言を生むのであり、父と言はその意味で同じ次元にあることだ、とおっしゃいます。ふむふむ、なにやら分かったようなわからんような話ですが、前回も話したように山田先生のここでの力点は、父と言の同一性というか、無劣化性を論じることにあったわけですから、このダイナミズムに直接これ以上の言及がないのはやむを得ないところです。
 
 ですが、後年のドイツ観念論の思想的背景、とくにフィヒテあたりを考える上で、このへんの見取り図を作っておくことはいかにも大事そうです。ということで、ここは稀代の碩学クラウス・リーゼンフーバー先生の「中世哲学の源流」(村井則夫 [ほか] 訳、創文社、1995)から「第十八章 知性論と神秘思想 −十三・十四世紀スコラ学の問題設定」を読んで、とりあえずこうしたダイナミズムの理解につながりそうな一連の流れをフォローしてみることにしましょう。

 さて、この章の出発点になるのは、アリストテレスの能動知性、受動知性という考え方。ごくごく簡単に言うと、受動知性というのは我々におなじみ、ものごとを区別し判断するような知性です。この働きをたとえるとしたら目の働きが一番よいでしょう。まさに、ものごとを見分ける目って奴ですね。
 じゃあ能動知性って?ということになるわけですが、能動知性というのは、目に対して光を考えてみればよいのではないかと思います。たしかに目はものを見ることが出来るけど、それには光がなくっちゃあいけない。なんせわれわれ、電気消しただけで何も見えなくなるくらいですから。じゃあ、この光と同じように、知性にも知性を可能にするなにかがあるはず、それを能動知性と考えましょう。

 なんとなくカントの悟性と理性の区別を思い出させるような話ですが、さしあたり、これがアラブ人思想家によるアリストテレス知性論の註解の流れです。特に、アヴィナンケは能動知性を人間的認識の原因とするだけでなく、あらゆる存在と出来事の原因と見なしたため、能動知性は神的作用が現前する場と考えられるようになりました(626-627)。能動知性は、認識にたいする受動的な可能性を有するだけの可能知性を現実態的な認識遂行へと移行させるものでもあります。ですから、両者はその完成状態においては合致することになるはずですし、そしてここで知性の至福が実現されることになります。つまるところ、知性は人間の意識において神的なものが現前する媒体となるのです(627)。

 アヴェロエスにとっても、人間知性の理論は人間の完成および至福という問題設定の枠内で考察されていました(628)が、彼の面白いところは、可能知性は思惟の能力としてそれ自体非質料的であるからして、知性は個々の人間や身体から独立した、個別化されない、あらゆる人間に共通の単一なる知性として自存するはずだ、と考えたところです。でも、感覚的知覚は質料に拘束されているために可能知性を直接に現実態化することはない。さて、そこに能動知性が介入するのだと。それゆえ能動知性は根源的には魂に属するものではなく、魂に対して現前するものなのである(628)ということになります。非身体的で、個々人の身体から独立した、離存的な単一知性。なんとなくネットワークとか集合知といったものを考えさせられるような雰囲気さえありますね。つまり、アヴェロエスは人間共通の知性と、身体ごとに多様な感覚的表象という組み合わせによって個々の多様な思考作用を説明するのです。

 さて、あまりラディカルに哲学的ではないトマス・アクィナスは、そない馬鹿なことがおますかいな、と反論します。トマスは、人間には純粋で単純な知性は備わっておらず、ただ知性的諸属性を分有する理性ratioのみが存すると考えます。でも、理性としての人間の認識能力には生来の認識内容(形象species)が備わっていないのだと。良く分かりませんが、つまるところものは見えるけど何を見て良いのか分からない、道具に振り回されて空回りの知性、というところでしょうか。
 ですから、人間の知性とは、可能知性であって、そうした内容にいたる可能性のみを有するものでしかありません。ですから、感覚的表象からその内容を獲得するには能動知性の助けがいることになります。能動知性は認識を可能にするものであり、可能知性は認識を遂行するものである、と言ってもいいでしょう。しかしそれゆえ両者の結合の可能性は排除され、魂の自己認識は内覚か、あるいは対象の認識から溯及的に獲得されるものとされました(636-637)。あんまり至福ではないのですね。このあたりから学者の仕事はセクシーでなくなった、といってもいいのかもしれません。また、能動知性を直接に経験することは出来ず、むしろそれはアリストテレスにある光の比喩のように、色を見させるという光lumenの機能や、力virtusとして説明されるものとなります(637-638)。このvirtusというニュアンスはあとあとドンス・スコトゥスとの関係で覚えておいて損はないかも知れません。


 さて、ここまではアリストテレスの能動知性の註解、といっても良い内容が並びまし、まあある意味ではカント的です。これが大きく変わるのは、アルベルトゥス・マグヌスを経て、フライベルクのディートリヒに至る流れであり、そこから知性論は単なる知性論を超えて、知の自己認識のなかのひとつの項として人間主体を考えるような方向を取り込むことになります。まあ、ある意味ではフィヒテ化?ともあれ、そのあたりを次回から見ていくことにしましょう。