秘書の秘所を避暑でひそひそ


 前回は、クラウス・リーゼンフーバー先生の「中世哲学の源流」(村井則夫 [ほか] 訳、創文社、1995)から「第十八章 知性論と神秘思想 −十三・十四世紀スコラ学の問題設定」を途中まで読んできました。トマス・アクィナスに至るくらいまでは、知性論として(もちろん至福論も含むので一概にそれだけとも言いかねますが)註解されてきたアリストテレスの能動知性が、ある時点で主体の生成論的な様相を呈するようになって来た、かも、という予告で話を終えたのでした。

 さて、このように流れを大きく変えたのは、フライベルクのディートリヒ。もちろん、幾人かの思想家の要点を並記してまとめたスタイルをとっているこの章で、だれが決定的なターニングポイントかを云々することは必ずしも適当なことではありませんが、すくなくともこの章の中でリーゼンフーバーせんせいの筆は、ディートリヒに関していちばん気合いが入っている感があります。
 リーゼンフーバーせんせいによると、まず、ディートリヒは能動知性と可能知性の区別が生まれた理由を、知性はすべてをなし、かつすべてとなることが出来るため、と考えます。ん?あの、いや、さっそく意味分かりません、と言いたくて仕方ないところですが、ここはたとえば鏡を考えてみましょう。鏡はすべてをそのままに曇りなく写しとることが出来ますが、そのためには鏡の表面はその瞬間映している対象と同じものにならなくてはなりません。まあ、一緒なのは像だけですが、とにもかくにも対象と知性がその瞬間同じになります。あの要領。
 さて、そのようなものとして知性を考えると、能動知性はそれ自体で認識を遂行するものと考えることも出来ます。つまり、顕在的な対照的認識を可能にすると同時に本質的な自己認識を遂行するという二重構造です。これを説明するために、ディートリヒは、アリストテレスの能動知性とアウグスティヌスの「精神の秘所」が同一であると考えるのです。
 アウグスティヌスによれば、精神の秘所とは、その場所において、何らかの事物の何らかの知識が存在し思惟されるとき、その知識はなんらかのかたちで精神の視野の中により明らかになったものとしてもたらされるが、その際に精神は自らを記憶し知解し愛するものとして発見する、とされています(Trinitate, 14, 7, 9)。能動知性はその本質的な自己認識において存在者を存在者として、しかしかつまた全体として捉える根源的認識を形成するのだと(649-650)。よくわかりませんが、分かるってことは分かった俺のことも分かる、というところでしょうか。まあ、たとえば何かの観測機器を用いて何かを認識した場合、その時には同時にその観測機器の仕組みと使い方も分かったということ、くらいかもしれません。もっとも、観測機器の場合観測機器の仕組みだけを対象認識とは独立に理解できたり、あるいは仕組みを知らなくても使っちゃう不届きものも居たりするので、いいたとえではありません。エクセルの出す数字は信用してますが、エクセルの仕組みなんてしらんっちゅうの、みたいな。

 ともあれ、こうして能動知性は、たんなる付帯的な能力ではなく、その本質と同様にその自己認識の活動において実体であり、また同時に、その実体的な自己認識において、自らの諸々の可知的内容を構成するものともなります。なんかヘーゲル。主体としてだけでなく実体として。能動知性の根源的遂行の構造、すなわち認識の超越論的自己構成の構造、ディートリヒにとってはこのれが至福直観でもあります。リーゼンフーバー先生はディートリヒのこの思想を以下のようにまとめています。


「能動知性は根源的にかつ自らの本質にもとづいて神を認識する。なぜなら能動知性は、根源的に観取されるものとしての神から発現することによってのみ、自己自らをもその根拠から理解する。その際に能動知性は、自らの自己遂行の只中において、自らに内在しながらも自らに先立った根源へと自己を透徹させ、それによって同時に根源から自己自らへと下降するという過程を通じて、自己を神からの発現およびそこへの還帰という仕方で構成するのである。」(653-654)

 さて、そこまで行くと、あとはドイツ観念論の思想家との関連性はとてもよく知られているマイスター・エックハルトまではあと一歩。マイスター・エックハルトは、能動知性を「魂の火花」とも呼びます(657)。かれにとっては、理性の自己超越とは神自身の語りかけ、すなわち魂のうちでの御子の誕生にたいする受容的・溯及的な応答なのです。はい、思わず《他者》のディスクールとか連想しますね。
 神は精神に対して自らに類似した存在を与え、精神を像として構成することによって、自らの永遠の御言葉を通じて精神のうちへと到来します。その際に魂は完全に神の像として形成され、神による自らの出生とあらゆる事物の出生とを分有するのです。つまり、魂は自らのうちから、ややこしい言い方をすれば、神を神から神において産み出すことになると。それは自らが神に似たものである神の像となるところにおいて、自らのうちから神を産み出す、ということでもあります(658-659)。個人的には、なぜフィヒテがあれだけ像Bildだ像だ像の像だ像の像の像だ(以下略)というのか、ここで分かった箇所でもありますが。

 リーゼンフーバー先生がそのつもりで書いているから、でもありますが、まあそこここにドイツ観念論理解の手掛かりもあるこの章の内容はそれ自体興味深いものでもありますが、やはり「なぜ神様はしゃべったのだろう」というところははっきりとしません。キリスト教の神はおしゃべりな神なのでしょうか(しかも独り言)。むしろシェリングの神が芸術療法のように世界を作った、そんなイメージと共に、人間は神様のリハビリのためにおしゃべりに付き合わされた木偶だ、と言ってもいいのかもしれません。しかし、いちどそのおしゃべりを受け入れてしまえば、あとはその言葉がいったん外化されそして回帰していくことで創造される人間が出来上がりです。神の山びこ。神様が自己認識をするために作った道具。

 ラカンによれば、これはキリスト教だからややこしくなるのであって、ユダヤ教なら簡単だ、というオチになります。ユダヤ教なら世界の創造の前から言葉はありますからね。ちなみにこれ、前々回おはなしした、「ちょっとしたこと」のひとつにあたる部分でもあります。


言葉は始めにあったというだけでなく、始めの前にもあったということに何の意味があるのか?それはユダヤ教の聖書でははっきりとわかります。始めの前に言葉はあった、ということは、つまるところ神さまは、自分がささやかな贈り物をした連中に対して、ありとあらゆる訓戒を垂れる権利があると信じ込んでいた、ということになるのでしょうな。ささやかな[petit]、と言いましたが、そう、鶏を呼ぶときに「ちょっちょっちょpetit-petit-petit」と言うときの、あの要領です。
("Le triomphe de la religion," p.89)

 ちょっちょっちょを訓戒と言って良いのかじいさん?かどうかは定かではありませんが、そう、我々の中には、神としてのロゴスの分有communicareがなされるのではなく、もしかしたらこのpetit-petit-petitが轟いているだけなのかもしれません。まあ、ユダヤの神様は、自己認識とか必要としない天性の主人根性ってとこでしょうか。