白馬馬に非ず?


 創造とは神が本性にその存在を与えることであり、いかなる本性も、それ自体としては普遍性であって、この世界に存在するという意味では実存しない。その普遍性にesseを与え、この世界に実存existereする個的存在者たらしめるのは神である。しかしキリストの有する人間本性が、言のペルソナからその存在を与えられて人間キリストとして実存すると言われる場合、それは神から存在を与えられるのではなく、存在をcommunicareされるのである。communicareは共有せしめるという意味を持つ。つまり神のペルソナとそのesseを共有するのである。

 前々々回は、なあんていう話を山田晶先生の「トマス・アクィナスのキリスト論」(創文社、1999)からお勉強したわけですが、その時は扱わなかったことで、これに関する指摘をひとつ山田先生はなさっています。
 この指摘からも分かるように、本性というのはそれ自身は働かず、働きの元となるものです。たとえば人間本性そのものは働かず、働くのは個々の人間であるが、その個々の人間の働きを規定するのは本性である、というように。中世では個物と普遍という論争があったことはよく知られていますが、キリスト論においてはそれは個物と普遍のどちらが概念でどちらが実在かという問題ではないのだ、と(100-101)。

 そうかあ、おいちゃんてっきり、ふつうに実在論では本来の普遍はイデアであり、普遍はものや個物に先だつante rem、とされていて、他方唯名論では、真に存在するのは個物であって、類や普遍は人間知性が勝手に作った抽象物でしかない、ものや個物のあとにpost remあるものだ、というごくごく普通の理解しかしてなかったなあ。(この辺が畜生の、もとい素人の浅はかさ。)けど、それが青筋立てた真剣な議論として2世紀以上も戦われてきたのには、それなりにわけがあったのね、という感じなのですが、今日はその辺にまつわる話を少し、山内志朗「天使の記号学」(岩波書店 、2001)から考えてみましょう。
 題名から分かるようにこの著作、主題は天使論ないし天使的コミュニケーション批判のはずなのですが、その辺は話の都合でさらっとすっとばして、第5章および第6章、山内先生の本来のご専門であるらしい、ドゥンス・スコトゥスの潜在性virtualitasという概念を中心に見ていくことにしましょう。

 ちなみに、ヴァーチャルリアリティ(もうそろそろ死語かもしれない)なんて言葉がかまびすしい時代には、このヴァーチャルってのはもともとは中世神学で使われていて、なあんて話も出ていました。で、だれが?ということになると、ドゥンス・スコトゥスが、というところまで出てくるのですが、で、なんで?ということになると、たとえばマイケル・ハイムの「仮想現実のメタフィジックス」(田畑暁生訳、岩波書店、1995)なんかにも、205頁あたりから言及がありますが、ちょっと全体のイメージとしては分かりづらい感じがあります。ここの説明だと認識論の構成上から必要になる単なる図式論のひとつでしかないように見えますし、図式論を成立させるのは人間の側にではなく、個物の側にあるという、なんかアベラールの概念論っぽい話で描かれてしまっているので、ちょっとその概念のもっている重要性が取りづらかったのです。ピエール・レヴィの「ヴァーチャルとは何か?―デジタル時代におけるリアリティ」(米山優監訳、昭和堂、2006年)も、スコトゥスの説明は綺麗にすっ飛ばしてドゥルーズミシェル・セールのヴァーチャルに則って話が進みます。

 さて、先ほどの山田先生の指摘にもありましたように、本質が存在を有するかどうかは本質からだけでは決定されません。その意味で本質にとって存在は偶有的なものです。でも、じゃあ存在を本質に対して外から付加されたもの、というふうに考えるのはちょいとトリヴィアルだしバカバカしいのではないか、と山内先生はおっしゃいます。そうではなく、本質は本質自体としてあり、すべての規定性は潜在的なものにとどまっているのだが、現実化の過程の中で潜在的なものが展開されていく、それが存在の顕現である、つまり本質事態の展開が存在の顕現であるとしたらどうだろうか、と。このように存在の偶有性を捉え直すことがドゥンス・スコトゥスの目的であったと(199-201)。

 なるほど、それはなんとなく面白そうだが、でもなぜそんなことをしなければいけないのさ、ということに関しては、山内先生はこれをドゥンス・スコトゥスの全体の構想のひとつとして説明してくれています。つまり、ドゥンス・スコトゥスには、偶然なるものの神学Theologia contingentiumを打ち立てることで、人間が啓示の光によって照らされることがないとしても手にしうる学知scientiaとしての神学を打ち立てよう、という構想があり、その下で必要になった考え方なのではないかと。

 たしかに、様態passioは偶有的であり、基体subienctumの本質には含まれません。そういった様態に関わる真理は偶然的であると考えれます(167-168)。そうならば、偶然的なものに関する知識はあり得ない、とされてきましたが、それでもなお、その対象において偶然的真理の結びつきを見ること(168-169)が企てられていたいのではないかと。

 さて、じゃあこの場合の本質ってのをまずどう考えようか、という話になります。本質自体の中から存在が顕現していくってことは、まず本質の方を考えるのが筋ですから。そこで、山内先生は絶対的に考察されたabsoluta consideratio本質というトマス・アクィナスが「存在者と本質」で述べている概念を紹介します。
 さて、なんのこっちゃ、という気がしますが、それはたとえば、人間である限りの人間、なんちゅうのがそれだ、ということになっています。(ついでながら、ラカンが四六時中口にするen tant queはこの言い回しと関係あるのかしら、と考えてしまいますが。)
 この場合、この人間=ソクラテスは白いという命題が真理であっても、人間である限りの人間のソクラテスは白い、は偽です。そらまあ、白いっていうのは別に人間の本質に含まれないですからね。さらに、こっからがややこしいのですが、それは一(普遍)でも多(個物)でも、事物のうちにも精神のうちにもなく、可能態としても現実態としても(195-196)ありません、ということにされています。
 これはどうも、アヴィセンナの『形而上学』第五巻冒頭に於ける馬性の議論の影響下での中立無記性の導入の影響にあるのだと山内先生(196-197)。馬性ってなんやねん、白馬馬にあらずか公孫竜か、と懐かしい話を思い出しましたが、どうもそうではありません。中立無記性とは、AとBのどちらか一方になりうるがどちらへの傾向性ももたず、また現実にはそのいずれでもないということを指すのだそうです。つまり、なんらかの共通性ではあるが上位の類を想定するわけではない、とされています。
 ここから考えると、たとえば人間本質はどの人間でもないが、どの人間にもなりうる、ともいえます。こう考えると、本質自体はこの現実世界に存在する無数の個物の原型としてあることになります。ですから、本質自体は無数の可能性を潜在的に、中立無記的に含み、可能性を一なるものとして含んでいる(197)ことになるのです。また、この時点では、可能態でも現実態でもない、排中律は適応できない、また矛盾対立する選択肢のどちらにも中立的なもの、という意味も持つ(158-159)ことになります。

 ですが、山内先生のおっしゃるようには、ここまでの中立無記性indifferensというのは、ガンのヘンリクスでも提唱されているもので、これだけではドゥンス・スコトゥスのオリジナリティ全開というわけにはいきません。スコトゥスが主張したのは、可能なものが現実化する過程において、事物に内在する積極的なものが現実化するということなのだ、と山内先生はいいます(160)。

 たとえば、(1)限定されるもの、(2)限定するもの、(3)限定されて存するもの、の三項図式を考えましょう。まあたとえば、馬性がなんらかの限定を受けて、実際にディープインパクトになる。この場合、馬性は(1)でディープは(3)です。
 じゃ、二番目の限定するものはどうするのか?サンデーサイレンスウインドインハーヘアか?あるいは神様が適当に決めたということにするのか。communicareしそこなって(馬ですからね)dareになったときに、偶然伝え損なった部分は何なのか。

 スコトゥスはこれを内在的様態と捉えること冗長な構造を回避します。これはあるいは形而上学的濃度とも呼ばれています。このように、内包量的な度合いとしてとらえることで、あるものが特定の飽和度を有することで概念規定では何も付け加えることなく個体化が生じることが出来る、とドゥンス・スコトゥスは考えたのでした。たとえば、白の飽和度は白という基体とは独立にあるわけではないが白そのもののうちには含まれてはいません。内在的とは、構成要素となるという意味で内在なのではなく、別個のものでありながら潜在的に含まれている、という意味であり、概念規定においては別個であっても不可分な仕方で結合し一なるものを形成する(161-162)。

 こうして、ドゥンス・スコトゥスの有名な「存在の一義性」という概念も理解できるようになります。すなわち、存在の一義性は、存在はすべてのものに潜在的にかあるいは形相的に含まれ、その意味で一義的です。これは、存在は存在によって存在となる、あるいは存在の自己限定と述べても良い(162)、と山内先生はいいます。ん?なんだか微妙に前回ご紹介したマイスター・エックハルトめいた言い回しになってきましたね。

 さらにいえば、もうひとつ、ドゥンス・スコトゥスの有名な「このもの性haecceitas」という考え方も、ここで位置づけられるようになります。個体化は共通本性に新しい概念規定を加えませんが、にもかかわらず個体化はそこに生じています。そこに見られる錯綜をスコトゥスは内在的様態modus intrinsecusと表現しています。
 たとえば特定の赤色には必ず特定の濃さがあり、その結果特定の赤としてあるが、この濃度は赤に何を付け加えていることになるのでしょう?スコトゥスの力点のひとつは、このもの性は偶有性ではなく様態であるとする点にある(214)と山内先生は言います。共通本性とこのもの性は、本性の度gradus naturaeと個体化する度gradus individuansというように、ことなる内包量として捉えられる(216)のです。

 さて、次回はこうした話が持ちうる展望について、ちょっとだけ、いくつかアイデアを。