らんらん卵

 さて、前回は山内志朗「天使の記号学」(岩波書店 、2001)から、ドゥンス・スコトゥスの潜在性、そして存在の一義性やこのもの性といった、いくつかの重要な概念を手習いしてみたところでした。

 ここでは山内先生ご本人もお書きになっているように、存在の自己展開という方向性が強く打ち出されています。これはプロティノスを受容したアラブの思想家から13世紀後半にヨーロッパに流入したもの、と山内先生はおっしゃっています(194)。
 同時に、たとえば卵の比喩にあるように(ドゥルーズの場合は胚ですが。「差異と反復」315頁他)、山内先生ご本人の傾向は非常にドゥルーズ的な色彩を感じさせる箇所の多いもの、もっといえば、ドゥルーズスピノザ的な存在の一義性をドゥンス・スコトゥスに援用したという色彩の濃いものです。これはいや別に普通にドゥンス・スコトゥスを読めばこうなる知らんのは無知なお前だけや、ということなのか、そうではないのか、また勉強してみねばなりませんが。

 それはともかく、こうした意味でのドゥルーズ=ドゥンス・スコトゥス主義を突き詰めていくと、ある種プロティノス主義に回帰していく、そのように思われるところが興味深いところでもあります。もちろん、ドゥルーズの最後の論文のひとつ、「内在―ひとつの生・・・」(「狂人の二つの体制1983-1995」(宇野邦一監修、河出書房新社、2004)所収、p.295-300.)にも言及があるように、後期フィヒテもそこに入ることになるでしょう。
 いずれにせよ、ここまで論じてきた存在の自己展開の、その出発点となる中立無記性、ドゥルーズはそれを胚と言いましたが、いまであれば、ES細胞あるいは多能性幹細胞を思い出さざるを得ないところでもあります。ドゥルーズの世界はつねにそうした肥沃な生命、あるいはドゥンス・スコトゥス風に言うと「無限なる実体の海」(221)を湛え、満たされているかのようでもあります。

 さて、ここからは簡単な展望ですが、例によってこうして得た知見はどのようにラカン研究に生かせるのか、に関しては、おそらく三つほどアイディアが可能でしょう。
 ひとつには潜在性と可能性というドゥルーズ的な対立を、潜在性の側に偶然性という様相を付加することで、ラカンが晩年にアリストテレスの研究をしながら必然性、可能性、偶然性、不可能性について研究した箇所と重ね合わせてみることです。特に、ラカンの場合この四つの様相の研究は、ある意味で女性の去勢ないしは「女性としての個体化」(なあんてリスキーな言い方をしてよければ)につながるものでもあるだけに、興味深いものです。

 二番目は、この存在の自己展開という考え方を、ラカンの晩年の、いわばララングから主体への展開ともいうべき主体の生成論と重ね合わせてみることです。とりわけ、山内先生が本書で紹介していたアラブの思想家の同一性の概念とラカンのmemeという概念などが面白い比較箇所になるでしょう。もっとも、memeをラカンのキー概念として取り出しているのはジャン=クロード・ミルネールくらいかもしれませんので、スタンダードとは言い難いかも知れませんが。

 この奇妙なmemeという言葉の使い方は、セミネール第九巻のなかで「同一化の中で、同一として提示されるもの、同じmemeという概念の基礎」(1961.11.15)として登場しています。これは最終的には差異の同一性、として定義されることになるものです。それはuniqueなものとして、「唯一seulなものとしてのUn、どんな差異があろうと、あらゆる差異がありましょうが、すべての差異は等価であり、そこには一つのものしかない、それが差異である、というような意味でのUn」(1972.5.4)と定義されるものであり、これをミルネールはもっとはっきりと、「Memeであること、それはUnであることでもある」(Jean-Claude Milner, Les noms indistincts, Seuil, Paris, 1983)と指摘しています。


 さて、今回はその言わんとするところを縷々と展開するのはちょっと差し控えて、さしあたりこれは主体の同一化、それもシニフィアンへの同一化としての、主体の誕生の分析の手始めである、とだけ指摘しておくことにして、今回のお勉強の中から、。それを比較対照出来る箇所をあげておきましょう。
 山内先生によれば、同一性については、「アリストテレス神学」のアラビア語テキストではフウィーヤという言葉が用いられています。同一性とはここでは、一と多、第一者と被造物の媒介であり、同時に一なるものが多なるものへと展開生成する過程と力でもあるとされています(190)。存在は本質と別個ではないにもかかわらず、存在は一種の偶有性とされているのですが(191)キンディーの「第一哲学」では、現実化・個体化のプロセスが存在化として捉えられ、その存在化の相が現実存在フウィーヤとして考えられている(192-193)と本書では述べられています。こうしたプロセスの比較を試みることは、おそらく可能でしょう。

 そして最後は、若干回り道になりますが、この中立無記性がたとえばパースのlogic of vaguenessほかの一連の論理概念とどう関係しうるかを考え、そこからラカンの性別化の問題に切り込んでいくことでしょう。これはまた、性別化に留まらず、スキゾフレニーの論理を考えるうえでもひとつの鍵となる、と、Danielle Roulotさんが、その著書"Paysages de l'impossible - clinique des psychoses"(CHAMP SOCIALE ET THEETTETE EDITIONS, 1999)の中で述べています。Roulotさんはかつてガタリも運営にたずさわっていたラボルド病院の先生、ということは、そこからまたドゥルーズ=ガタリ的な可能と潜勢の対に話を戻すことも出来るかも知れません。まあ、三番目はずいぶんと道のりが長そうですが。。。

 個人的には、ララングから主体へという議論に援用可能っぽいというあたりで、2番目にはとても心惹かれるのですが、その際にはやはり、ドゥルーズ的な豊穣の海、あるいは世界の胚をどのように考えるかを考えなければいけないでしょう。

 ドゥルーズの場合は、『差異と反復』にはっきりと現れているように、この胚の分化はそれぞれが抱える「課題」、あるいは「問題」ともいうべきものに応じて進んでいきます。それは、どこか役割が器官を作る、という話を思い出させます。目というものを見るための器官があったわけではなく、たまたま感光能力が一番高い細胞があり、そいつから入ってくる情報がいちばん生きていく上で重要そうだったら、そいつを情報担当の専門官にすることになるし、その情報源は当然光だ、という具合に、生きていく上で必要だった役割が器官を特異化していった、というような。

 で、ラカンせんせいはもちろん直接ドゥルーズに対してではありませんが、こんなイヤミを言ったことがあります。


機能が器官を作る、と言われます。全く馬鹿げたことです。こんな馬鹿げたことでは何の説明にもなりません。・・・動物界には、ある器官の過度な成長、過剰発達によってその有機体が滅びるという例は無数にあります。有機体と器官との関係における本能のいわゆる機能は、教訓という方向でこそ理解すべきものと思われます。
seminaire XI, p.93

 まあ、たしかに考えるべきはこのあたりになるのでしょう。