汚物は消毒だ?

 さて、一元論倶楽部の皆様こんばんは、お久しぶりでございます。

 一元論ってなんだ、という問があったとして、それにどう答えるだろう、と考えてみると、やっぱりいちばんシンプルな答えは、「宇宙が一つの卵」と考えられているかどうかであろうなあ、と思います。もちろんはっきりそう言う人、言わない人、色々ですし、もしかするともう少し抽象的に「一つの生成原理から連続的に発生する」くらいにしておく方が良いのかもしれませんが。

 そんなわけで、今日ご紹介するのはチャールズ・サンダース・パース先生。ちょっと前に伊藤邦武先生の「パースの宇宙論」が出版されたり、あるいは中野先生のサイトで「連続性の哲学」(岩波文庫)の復刊投票の呼びかけなどがあったりと、個人的にはけっこう局所的に旬な方だったりするわけですが(そう言えばこないだの「大航海」の特集もパースでしたね)、わたくし個人としてはよりいっそう電波なところに、すなわち一元論者としての(せんせいのその他の先駆者的貢献と比べると多分あんまりものの役に立たない)側面に心惹かれてしまいます。

 まずは御大の宣いようから聞いてみましょう。その気宇壮大さたるや、おそらくシュレーバー議長クラスと言っていいかもしれません。

「遙けき無限の太初に、混沌とした非人格的感情があり、そこには関係も規則性もなかったから、まさしく現存性もなかったと考えられよう。この感情は、文字通り気紛れにここかしこと遊び戯れ、変種を発生させているうちに、一般化の傾向の胚種を宿したであろう。その感情にみられる他の戯れの変種発生は束の間の儚きものであるが、この胚種には成長する力が備わっているであろう。かくして、習慣化する傾向が起こり、そこから、他の進化の原理とともに、宇宙のあらゆる規則性が進化することとなるであろう。とはいうものの、いついかなるときでも、純粋な偶然は残存し、世界が絶対完璧で、合理的で、整然たる体系となるまで存続するであろう。そして、無限に遠い未来に成り立つその体系のなかで、精神はついに結晶と化するであろう。」(チャールズ・サンダース・パース 「偶然・愛・論理」(浅輪幸夫訳、三一書房、1982)[以下「偶然・愛・論理」]、p.222)


 うん、飛ばしてますね先生。音楽好きの人ならベートーヴェンの第九交響曲のオープニングを思い浮かべそうな勢いです。しかし話はこれだけに留まりません。すぐさま次を引用しましょう。


「われわれが物質と呼んでいるものは完全に死んでいるのではなく、習慣によってがんじがらめにされた精神にすぎないのだと。物質は多様化する要素をいまでも保有しており、そして、こうした多様化のうちには生命が存在している。」(「偶然・愛・論理」、p.285)


 ですから、この原初の混沌、その巨大な感情は、どこかで規則性を得、そして習慣によって物質になる。ちょっとベルグソンです。

 もちろん、こんな話をパースせんせいが喜んでしていたわけではありません。なにせ皆様ご存じのように、パース先生は当時は高名な科学者、数学者であり、現在ではいくつも先駆的な業績を残した論理学者、独自の記号論の提唱者として知られているわけですから、気質的にこうした電波な話と親和性があったとは思えません。なんといっても、そもそも上述の引用箇所の直後で本人がこうぼやいています。ちょっと長いですが雰囲気が良いのでそのまま引きましょう。


「わたしはエマソンやヘッジやその友人たちが、シェリングからつかみ取った思想を周囲にまき散らそうとしていた、ちょうどその時代に、コンコードの近く、つまりケンブリッジのことで生まれ育ったのである。シェリングはその思想をプロティノスベーメから、あるいは、東洋の途方もない神秘思想に感染した誰とも知れないような人々から、つかみ取ったのであるが。とはいえ、当時のケンブリッジの雰囲気は、コンコードの超越主義の蔓延を防ぐために、大量の消毒剤が散布されていた状態にあった。そこでわたしが意識している限りでは、自分がそのウィルスに感染した記憶はまったくないのである。しかし、それにもかかわらず、何らかの培養されたバクテリア、良性のタイプの病気が知らず知らずのうちにわたしの精神に植え付けられていて、長い潜伏期間をへた今になって、数学的な諸概念と物理的研究の訓練によって修正された形で、表面に現れてきたということはありうることなのである」


 こうした時代背景については、そのケンブリッジプラトニズムとの影響関係を伊藤邦武先生がお書きになった文章をこちらでも読むことができます。ためになりますね。
 いずれにせよ、ここで見られるようにこういう思考は「ウイルス、バクテリア、病気」なみの扱いを受けているわけですから、この忸怩たる感じ、ちょっと可愛いといえば可愛いですが、ご本人としてもとてもしらふでは言いにくい見解であったろうことは確かでしょう。

 さて、しかしパース先生のそうした衒い照れ羞じらいはずんずんとっぱらって議論をおっていくことにしましょう。