偶然の連続

 さて、前回はチャールズ・サンダース・パースを取り上げて、かれが「いやいやながらも」シェリング的な精神と物質の一元論にまでたどりついてしまったあたりを眺めてきたのでした。

 まずもってじゃあ、一元論にはつきものの、原初の一者みたいなのはなんだったかというと、パースの場合はそれを遙けき無限の太初にあった混沌とした非人格的感情と表現していたわけでした。
 もし、これを非人格的な感情というのであれば、そこからわれわれの精神はどのように発現、ないしは分化してくることになるのでしょうか。

「偶然=自発性のあるところならどこにでも、それと同じ割合で感情が存在する。実際、偶然というものは、内的には感情といわれるものの外的位相にほかならないのである。その昔、わたしは実在的存在、ないし事物の本質thing-nessは規則性にあるということを示しておいた。したがって、規則性の全然ない太初の混沌は、物質的位相からすると、たんなる無にすぎなかった。しかし、それは空虚なゼロではなかった。なぜならば、そこには強烈な意識があったからであり、また、それに比べれば、われわれの感情などは、所詮、無限で無数の偶然の多様性に向かって、わずかな法則力を放出しようともがいている一、二の分子の動きのようなものにすぎないからである。」(「偶然・愛・論理」、p.313)

 つまり、われわれの個人として持つ、人称的な感情というのは、この原初の感情から、その強烈な意識からはじき出されたような分子の動きに過ぎないとされています。ですが、ささやかながら法則力を発揮し、規則性、習慣によって小さな一つの閉じた世界を作ろうとするのもこの分子。そして、その分子のうごき、感情は、根源的には偶然と同じものと考えられています。極論すれば、物理的次元で言えば偶然とされるものが、心的次元で見れば感情です、みたいな。
 だとするなら、この規則性による一般化は、必ずしも個人のレベルだけではなく、集団のレベルでもありうるわけですし、パース自身も「団結心、国民感情、共感はたんなる隠喩ではない。」(「偶然・愛・論理」、p.316)と言っていたりするわけですが、こちらの方向性はいったんさしおいて、まずはこの「偶然」ということについて考えていかなくてはなりません。

 もちろん、こうした偶然がきわめてエピクロス的であることはご本人も承知の通りです。

エピクロスはこの原子論を修正し、その防御壁を修復しているうちに、原子は自発的偶然によりその規定コースから外れる、と考えざるをえないことに気がつき、そうすることで、原子論に生命と活力を賦与したのであった。それというのも、現代においては、物理学の分子論的仮説が確率計算への道を切り拓くうえで特異な働きをしていることが明瞭に知られているからである。」(「偶然・愛・論理」、p.225)


 ですから、ある意味ではパースの理論構築は、この「偶然の一元論」と言うべき側面も持つことになります。

「仮説形成の原理に則って、われわれの思考は可能な限りどこまでも二元性を排して、一元性の仮説を追究するべきであるというのであれば、・・・法則の最初の萌芽は一個の存在者であるが、それ自身は偶然によって生まれたのであり、この偶然が第一性なのであると。というのも、偶然の本性とはそれが第一者であるということであり、逆にまた、第一者の本性とはそれが偶然的であるということであるからである。まったくの不規則性であるランダムな分布だけが、それに反する一切の理由の不在ということによって説明できる、唯一の事象である。」(チャールズ・サンダース・パース 「連続性の哲学」(伊藤邦武編訳、岩波書店、2001)[以下「連続性」]、p.156)


 パースはこの偶然主義を、偶然主義Tychismと呼びます。語源はラカンの読者の皆様ならご存じのあのテュケーですね。
 しかし、パース先生のおっしゃるようには、偶然主義だけを取り上げられるのは余の本意とするところではない、むしろ本質的なのは連続主義Synechismのほうなのだ、と、そういうことなのだそうです。
 ちなみに、ラカンがパースについて言及していたことは何回かありまして、たとえばセミネールの15巻、18巻の時期は4分割された円でパースが普遍特殊の否定肯定からある種の量化を解釈していたところに関して、そして第19巻にあたる1972.6.14の講義では、お弟子さんのルカナティさんがパースについての発表をしているのですが、その一部でちょうどこの原初の混沌としてのポテンシャルと、偶然、出来事としての切れ目についても触れられていたりします。その影響もあるのでしょうか、21巻以降は関係概念に興味が集中したようですが、これはまたあとの話で少し関係してくるかも知れません。逆に、最近時々見られるように、パースの第一性、第二性、第三性をラカンの現実的なもの、想像的なもの、象徴的なものに即当てはめるのはちょっと無理がある、ということも。もっとも、ラカン本人はその三分法に親近感を感じていたことは確かですが(1976.3.16)。まあ、この辺は一部のマニアに参考までに。

 さて、話が逸れましたが、じゃあパース先生がみずからの本分というところの、連続性ってなんでしょう。これには、ちょっと順を追って行かなければいけません。といっても、材料自体はすでに出そろったものです。この辺から次回は話を進めていくことにしましょう。