いちにのさん

 さて、ここまでは、パースの一元論的な宇宙論を見ていき、その偶然主義と連続主義というところまで話を進めてきたのでした。

 まず、世界の原初には、くだんの混沌があります。別な箇所でのせんせいのお言葉を借りれば、「全く不確定な無次元的潜勢態の純然たる曖昧さから始まる」(チャールズ・サンダース・パース 「形而上学 パース著作集 3」(遠藤弘編訳、勁草書房、1986)[以下著作集3]、p.110)ことになるわけですね。しかし、その混沌が一般化への、また習慣形成への普遍的傾向のもとにあることから、宇宙の諸法則が形成せられて来た(「著作集3」、p.78)というのがパース先生の大前提たる仮説。そして、その最初の一歩となるのが、あの偶然です。つまり、パースの世界では偶然が第一性であり、実質entityであるわけです。

 しかし、それはまた見方を変えれば「自由の、あるいは潜勢態の論理とは、潜勢態は自己自身を抹消すべしという論理である。」(「著作集3」、p.98)という風に考えることもできます。それは未分化なものが自己を分化する、ということでもあり、同質なものが異質性を身にまとうといってもいいとされています。(「著作集3」、p.。110)変な言い方をすれば自己異質化、というところでしょうか。ここで、パースが第二性と呼ぶものが出現してくることになります。ひとことでいえば「何か変なものに触った」というあの感じ。ここで、「想定しなければならない第二の要素は、それらの質同志の間に偶然の反作用がありえたということである。しかしそれらの反作用は事象eventsと考えねばならない。」(「著作集3」、114)とパースは言います。つまり、世界から実体が生じ、それは同時に反作用としての事象を誕生させるということです。このあたり、ドゥルーズエピクロス的な原子論を、関係という言葉で理解していたことと通じるものがあります。

 この質というのは、ですから自らの外部との出会いによって生ずるというより、「あらゆるもの一般の潜勢態の曖昧さの縮減(contraction)によるに相違ない。」(「著作集3」、p.111)ものです。ちなみに、このcontractionという言葉の持つドゥンス・スコトゥス的な意味合いについては「連続性の哲学」のほうで訳者の伊藤邦武先生が、普遍、一般者が述語づけられることで個物へ縮減していくこと、という意味があることを適切に指摘されています。
 質はまた、意識とも等置されています。「さて一つの質は一つの意識である。・・・そうすると可能態ないしは潜勢態は特定の意識じみたものである。その可能態がそっくりそのまま一つの意識だというつもりはない、むしろそれは一つの意識じみたものであり、一つの潜勢的な意識である。」(「著作集3」、p.99)この場合、これに先んじて存在している世界があるとするとそれは「アダムが初めて目を開いてみたその日の世界・・・(チャールズ・サンダース・パース 「現象学 パース著作集 1」(米盛裕二編訳、勁草書房、1985)[以下著作集1]、p.45)とされています。美しいですね。同時に、パースではこの第一のものというのが原初の混沌なのか、それとも最初の偶然なのか、ちょっと混乱しやすい、ということも透けて見えたりしますが。

 こうした「他者の感覚」としての第二性、非我のもつショック、そうしたものが意識の本質だとしても、しかし人間はそこに留まることはない、そこにはやがて一般規則、習慣というものが成立し、関係性を打ち立てていくことになります。連続性とは規則性の一種でありその変種である、とパースは考えています。(チャールズ・サンダース・パース 「記号学 パース著作集 2」(内田種臣編訳、勁草書房、 1986[以下著作集2]、p.112-113)実体たる偶然としての第一性、そこから生ずる出来事としての第二性と、さらにそれが一つの習慣を確立し、一般性を獲得していく第三性があり、自分の主眼はその第三性を描くことにあったのだが、まあ一と二がないと三もないからね、一生懸命書いておいたんだよ、とパース先生のおっしゃるよう。そして、自然法則から(人間的な)習慣に至るまでが、ひとつの進化の法則に乗っかったように、より一般化を高めていく方向に進んでいくことになるのだが、同時にその一般性を破る偶然によってまた脅かされ、そしてそれがまた一般化へと回収され・・・という運動をたどるとされるのです。

 ですが、ここで連続性という言葉は、奇妙なねじれを描くことになります。

「・・・根源へ溯れば、一切の情態が同様の仕方で結びついていたのかもしれない、そして次元の数は無限であったと推定される。何となれば、発展は本質的に諸可能性の限定を含むからである。しかしながら多数の次元の情態が与えられるならば、異なった要素の強度を変えることによって、情態のあらゆる可能な種類がえられる。したがって時間は情態における強度の連続的変域を論理的に前提している。かくして連続性の定義から次のことが帰結する、すなわち、ある特定の種類の情態が現存するとき、それより無限小だけ異なるようなすべての情態を集めた無限小の連続体が現存すると。」(「著作集3」、p.134)

 そう、ここで連続性の定義によって描かれる連続体というのは、むしろ原初の混沌のほうに与えられた名であるようにも見えます。第一性のそのまえの第零性?と、第三性が奇妙にくるっと輪を描く、どこぞの海の端っこにいるという蛇さんのようなこの感じ。いや、あらゆる可能性の集合としての連続体が、出来事という非連続性によって遮られ、そしてその非連続性が連続性へ回収されていく、という風にすると、用語の混乱はなくなるのではありますが。そしてまた、この出来事の起こる非連続性こそが現在の定義である、ということを、パースは説明します。(「連続性」、p.168-169)

 そうすると、もしこれを出来事というのであれば、これは時間の生成論でもあり得ることは確かです。つまり、連続体としての原初の混沌、その強度の連続的変域には無限小の連続体が現存し、それがある偶然によって束の間非連続性をもつ、と。そしてその非連続性としての現在が再び連続性としての時間の流れに回収されていく。

 次回は、そのあたりからパースの時間論(の端っこくらい)を見ていくことにしましょう。