一個二個三項思考


 さて、こうして形成される第三性について、パースはちょっと面白いことを言っています。もし、アヘンを飲んだ患者が眠るのはアヘンに催眠力があるためである、という命題があったとして、それは無内容に言葉をくり返しただけのスコラ的説明ではない。「それはいかに不明確であっても、一片のアヘンにそのような作用を働かせるある種の理由、ある種の規則性を指している。」(「連続性」、p.91)この説明、象徴的なものに対するジジェクの説明と一緒です。ジジェク先生の場合は、病名がついただけでそれ以上のことは何もわからなくても、やっぱり病名がついたというだけでもたいしたもんだ、という話で象徴的なものについて説明していたわけでしたが。バカバカしい話のようにも思えますが、まあ一般教養の根源はそこにある、とわたくしなど思うのですがいかがでしょう。

 こうした第三項的な特徴について、パースはこう述べています。もし、それが真正の三項態であるとすると、そこには

「一つ一つを継続的に加えることによって生じ得るすべてより以上の何ものかという観念を含んでおり、したがってそれは一般性の観念を含んでいる。真正の三項態はしたがって一般性を含んでいなければならない。」(「著作集1」、p.148)
「完全に真正の三項態はそれらの性質および事実の世界とは全く別の存在で、それは表象の世界に存在する。実際、表象は当然真正の三項態を含んでいなければならない。実際、表象は当然真正の三項態を含んでいなければならない。というのは、表象はある対象とある解釈思想を媒介する。さて、これは事実の問題ではない。なぜなら、思想は一般的であるからである。それはまた法則の問題でもない。なぜなら、思想は生きているからである。」(「著作集1」、p.149)


 こうした意味での、すぐれて第三項的な表象として、パースは象徴記号という言葉を用います。パースによれば、象徴記号の本性とは以下のように説明されています。

「象徴記号というのは、その解釈項を規定する規則であるということにその表意特性が存在するような表意体である。単語、文、書物、その他の慣習的記号は象徴記号である。」(「著作集2」、p.43)
「象徴記号は法則、つまり不定な未来の規則性である。・・・しかし、法則は必然的に個々のものを支配し、あるいはそれらのものに「具体化され」、それらの質の幾つかのものを定める。」(「著作集2」、p.44)

 そして、これまた興味深いことに、「象徴記号というのは自分自身をその対象として持つことさえできない。というのは象徴記号はその対象を支配する法則だからである。」(「著作集2」、p.59-60)というパースの定義は、ラカンの「シニフィアンは自らを表象代理することだけはできない」という定義と重なるものでもあったりします。ちなみにラカンせんせいの発言は

シニフィアンとはいかなる時も、自分自身に折り返されるときも、自分自身を表すことはできない」(1964.12.9)


というものでした。ご参考までに。

 こうした象徴記号の特性こそが、すぐれて記号の本質的な機能であるとパースは考えます。パースはそれを簡約に「記号の本質的な機能とは、効力のない関係を効力あるものにすること、しかし実際に作動させるのではなくて、必要に応じてそれらを作動させるような習慣あるいは一般規則を確立すること、であるように思われる。」(「著作集2」、p.96)と表現していますし、そうすると必然的に、「表意(作用)という観念は無限性を含んでいる。というのは、表意(作用)は別の表意(作用)によって解釈されない限り、本当は表意(作用)でないからである。」(「著作集2」、p.99)というかたちで、表意作用の無限の連鎖として確立されるものとして、一般性が定義されることになります。

 ところが困ったことに、さらに、これは思考その物の本質でもある、とパースは話を広げます。「われわれが考える時、われわれ自身であるところの思考-記号はどんな思考に話しかけるのか。・・・常にわれわれ自身の後続する思考によって解釈される。」(「著作集2」、p.180)
 ですから、思考それ自体は直接現前する限りでは部分のないただの感覚であり、解明不可能であって、現在の実動的な思考はただの情態であり、まったく意味つまり知的価値をもたず、意味つまり知的価値は後続する思考により表意(作用)の中でその思考が結合されるかもしれないものにあることになるでしょう。

 あるいは、ラカンシニフィアンと無意識という議論は、この先行者と後続者に位置づけることもできるかも知れません。

シニフィアンは他のシニフィアンにたいして主体を表象代理する。」・・・もし私がシニフィアンは他のシニフィアンにたいして主体を表象代理する、といったのだとしたら、それは問題の主体がそれを発した側の方であるからということなのです。もし無意識というのが私の教えたようなものであるとしたら、無意識について語るとき、我々は何を言わんとしていることになるのでしょう。フロイトにおいてはそれは「エスの語るところ」です。主体というものを、皆さんは自らを告げるシニフィアンの背後におかなければいけないのです。そして、このメッセージ、それを、皆さんの無意識によって受け取る皆さんは、他者の位置にあるのです。つまり面食らわされることになるわけです。(1965.4.7)


 次回は、まとめというか、エピローグというかで、パースの言うところの思考、きわめて印象的なその一節を考えながら、ちょいと長くなったこの話を終えることにしましょう。