悪意の時間

 さて、前回はパースの連続主義と偶然主義から、ある種の時間論が描かれ得る、ということをちょこっと示唆して話を終えたのでした。

 この問題について、パースせんせい本人はどういっているかというと、こんなことを言っています。

「時間とは、論理そのものが客観的な直観にたいしてそれ自身の姿を現す形式のことであると。そして、現在という時点が非連続性をもつということの意味は、まさにその時点において、第一者からは論理的に派生できない、新しい前提が導入されるということである。」(「連続性」、p.170)

 興味深いのは、こうした時間の派生に関して、一元論の本家本元ともいうべきプロティノスによく似た考えがあることです。田子多津子さんは「プロティノスにおける“τ´ολμα”の意味―根源からの発出と離反をめぐって」(「新プラトン主義の影響史」(新プラトン主義協会編、昭和堂、1998)第四章に所収。以下2段落の頁数は同書。)という面白い論文の中でこの話を紹介してくれています。

 τ´ολμαは、勇気、大胆、傲慢、無謀という意味で、これは魂にとっての悪の始まりであり、生成であり、最初の異であり、自己を自己のものにしたいと欲することであるとされています。魂が自己を忘却し、父なる神を忘れてしまったことの理由はこれなのです。(90-91)「余計なことの好きなものがいて、自らが支配したいと望み、独立していること、現にあるよりももっと多くのものを求めることを望んで、それ自身も動きだし、自分も動き出した。われわれは<いつもその先へ>と<より後>と<同じものではなくて、次々に変わること>をめざして動きながら、ある長さだけ歩んで、かくして永遠の似姿である時間を作り出したのである。」(93-94)

 そしてこの無謀さは植物にまで達し、そこに入りこんだ宇宙霊魂を形容する際にも使われる(92)のですから、まあ物質とまでは行かなくても、そこまであと一歩というところまで入りこんでいます。ですから、τ´ολμαは一なるものからの頽落の原因とみなされる一方で、一面において各階層の存立の契機の意義を担い、その意味で悪の始まりであると同時に存在の始まりといえるかも知れないもの(98)とされるのです。ちなみに、ドゥルーズがときどき悪意とかひねくれとかいう言葉を使うときがありますが、あれ、なんか妙な主意主義的な印象があってしっくり来なかったのですが、こういう文脈であったかと思うとなんとなく納得が行きますね。ついでにいえば、この種の自己接触的なモチーフ(どうしてもというなら、ホワイトヘッドのself-enjoymentという概念を介して、マスターベーション的自己接触と連想を広げてみたい誘惑に駆られますが、茶々を入れるのはこの辺にして)が襞を思わせることは言わずもがなでしょうか。

 ですが、ここでパースの独自性というか、面白いところは、この「出来事」は別の「出来事」と出会うことなしには法則性はあり得ない、と指摘しているところです。このあとの引用箇所でいえば「二つの印の間」の出会いということになりましょうか。早手回しに言えば、思わず「シニフィアンの対」というラカン用語を使いたくなってしまうところでもあります。しかし同時に、精神分析にとってとても重要なのはどのようなかたちで、なぜ、どこでそのシニフィアンが出会ったか、ということであるのに対し、パースの場合はその点に関してはちょっと無警戒かなあ、という印象もあったのですが、先日のコメントでくもえもんさんが仰ったとおり、アブダクションは確かにそれに代わるものとして考えることはできるかも知れません。(双方の間で微妙に証明したい対象の重点が違う気もするのが難しいところですが)けどこれはまだちょっと先行きの長い話になりそうなので、いまは手を出すのは諦めましょう。
 
 いずれにせよ、

「宇宙の卵子とも言うべき元初の一般性はこのような印によって分割されるのが分かるであろう。しかしこの印は単なる偶然に過ぎず、消去することもできるものである。この印はまったく別の仕方で描いた印に影響を及ぼすことはない。二つの印の間に整合性がなければならないわけではない。そして、印が描かれるだけではそれ以上の進歩は何も生じない。進歩が生じるためには、この印が短時間であれ留まって、何らかの初歩的な習慣が確立しなければならない。偶然的なものはこの習慣のゆえに初歩的な形での停留の性質を獲得し、そこから整合性への傾向も生まれてくる。」(「連続性」、p.264-265)


というパースの指摘は、このエントリーのシリーズのネタの根源である「宇宙卵」と重なっているという意味でも大事です。もちろんそれだけではなく、偶然的な生起の重なりによって一般化する傾向が新しい習慣を形成するという、論理的過程(266)が描かれているという意味でも、そして、もしかしてデリダの読者であれば、「そうその印の滞留ってとこにさ、物質性がさ」とか言ってもいいかもしれません。

 しかし、それよりも問題なのは、この出来事と出来事との間の出会いをどう考えるか、ということでしょう。ここからは、あるいはやや飛躍的かも知れませんが、この出来事の出会いとしてパースの、たぶんパースの業績としては(これまでのわたくしの扱った議論よりは)こっちのほうが圧倒的によく知られているであろう、記号論の、特に第三項と象徴記号に関連づけて解釈してみたいと思います。その辺を次回から。