よけいなもの=あまりもの?

2008年12月24日

 ひとには、使命というものがあります。

 人生でなんらひとさまに責任を負わず、なんら約束をせず、ひとさまが居ようが居まいが行い続けるであろう信念ある行動にもモラルある振る舞いにも乏しいわたくしではございますが、この日にきっちり更新するという使命だけはきっちり果たしたいと、こう思うわけですよみなさん。ええ、誰も聞いていないですね。しかし良いのです。この一週間孤独に風邪で寝込んでいたにもかかわらず、それでも立ち上がって今日この日に更新する責務だけは果たそうとするこの後ろ姿の凛々しいこと!(色んな意味で隠れもなく知られている広大に輝く前額部のみならず、さいきん後頭部も薄くなってきたというはなしがあります。ひみつです。)


 まあそれはともかく、そんなわけで取り上げてみようと思うのは、「言葉の暴力」。うん、じつに今日の嘉き日にふさわしいテーマです。おまえらクリスマスクリスマスいうな今日の予定は聞くな年齢も聞くな独身かどうかとか聞くなそれに(略)も聞くな。うん、本当にこういう日のためにあるテーマですね。
 とはいえ、この種の「言葉」がなぜ暴力になるのか。それを理解するには、やっぱり言語遂行論についての若干の知識が必要だ、というのが、いちおうはスタンダードな回答でしょう。しかし、ジャン=ジャック・ルセルクル「言葉の暴力 「よけいなもの」の言語学」(岸正樹訳、法政大学出版局、2008)では、ここをラカン派のララングと、それからドゥルーズ=ガタリリゾームとの接点にもってくるという、まあ派手にアクロバティックな芸が展開されることになります。いや、これはあくまで第一章の内容でしかないわけですが、今回は体力上の都合もあって(ほんとに寝込んでたんだい)序および第一章だけを手短に扱うことにしましょう。



 ルセルクルさんといえば、「現代思想で読むフランケンシュタイン」(今村仁司、澤里岳史訳、講談社、1997)ですでにご存じのかたも多いかと思われます。この本でも、「現代思想」と題されてますがとくに精神分析系の色彩は濃厚でしたしね。にもかかわらず分析哲学チョムスキーの研究者である、と。おかしいぞこういう人は普通ブーブレスみたいな本を書くんじゃないのか、という期待をしてしまうのですが。それと、もうひとつ昔から気になるのは、「ルソーの世界 : あるいは近代の誕生」(小林浩訳、法政大学出版局、1993)のジャン=ルイ・ルセルクルさんとは関係あるのかしら、ということ。なにせ、今回扱う方のルセルクルさんはジャン=ジャック。ルソーといっしょ。これで二人のルセルクルに関係があったりするとえらいねじれ現象なわけですが、うん、ややこしい。


 まあ「フランケンシュタイン」もそうでしたが、この本もちょっとアイディア一本勝負そのぶんちょっと尻切れトンボ気味、というきらいがなくはないわけですが、それでもアイディアが貴重ならいいじゃないか、ということで、まずはてみじかに見ていくことにしましょう。

 「よけいなものremainder」うん、なんとなく「アウシュヴィッツの残りのもの」を思い出させる言葉ですが(そして実は関係がないわけではない、と、個人的には考えますが、それはまたあとで)ここでのルセルクルさんのこのことばは、冒頭に掲げられ詩人たエドワード・リアの手紙を出発点にしています。

Thrippsy pillivinx,
Inky tinky pobblebockle abblesquabs?—Flosky! Beebul trimble flosky!
—Okul scratchabibblebongibo, viddle squibble tog-a-tog, ferrymoyassity amsky flamsky ramsky damsky crocklefether squiggs,
Flinkywisty pomm,
Slushypipp

 ・・・知らんがな。

 ルセルクルさんが書くように、50にもなったおっさんがこんな悪ふざけに熱中していてはいけません(ああ、色んな意味で耳が痛い50まではまだ果てしなく遠いけど多分きっと)、という教訓はさておいて、ルセルクルさんはそれをこう表現します。

「これはリアの「基本語」で書かれている。言語はもはや単なる手段ではなく、それ自身の生命を持ったものにみえる。言葉が話し、自らのリズムを追い、自らの偏った一貫性に従う。そしてときおり荒れ狂う、明らかな混沌の内で増殖してゆくのである。」(8)

 基本語、これはルセルクルさんご本人が書かれているとおり、そしてみなさますぐおわかりのように、われらがシュレーバー議長のあの「基本語」を踏まえています。ですから、ルセルクルさんはこれを意味不明のいたずらとして処理しているわけではないことがすぐにわかります。むしろ、混沌の下から、秩序を形成しようとすもうひとつの試みが、断片的で不規則ではあるが姿を現しているのであり、それは意味の欠如というより意味の過剰であると。それは、部分としての意味や構造が増殖しているから引き起こされるのだと。

 ルセルクルさんが「よけいなもの」と呼ぶ語は、ここにその最初の姿を現します。

「言語のこの暗闇の部分は、ことば遊びやさまざまな詩作品の中に、神秘主義者たちの啓示の中に、また言語の偏愛家や精神病者のうわごとの中にその姿を現わす。・・・私はこの側面を「よけいなもの」(the remainder)と名づける。」(9)

 なるほど、ラカニアン的には、なんとなくじぶんたちのフィールドのような気がしてきますね。


 この「よけいなもの」を切り分けるために、ルセルクルさんはふたつの道具を持ってきます。それが、一方では主としてジャン=クロードのほうの(姉妹のジュディットのほうのミルネールも援用されてますからね)ミルネールの解釈に依拠するラカン派の概念「ララング」であり、他方では、隠れも無きドゥルーズ=ガタリの「リゾーム」です。なんというそれこそリゾームちっくな組み合わせ。いいのか。うん、まあそれを見ていきましょう。

 では、まずララングの方を。

メタ言語のこうしたパラドクシカルな必然と失敗は、「よけいなもの」が言葉の本質として存在している、また別の証拠である。人間は自己の記憶や欲望と一体化した母語から逃れることはできない。言葉がそれほどまでに人間主体をとらえているので、規則の枠内におし止めておこうとしても、言葉はつねにそれを超えて存在し続ける。」(35)


 ここは直接ララングを扱うために援用した箇所ではありませんが、ラカンによるララングのもろもろの混濁した定義をご存じの方なら、これがそうしたララング論を踏まえた上で出てきた言葉であることはすぐにおわかりかと思います。

 そして、こうしたララングの特徴と、それがラングに対して持つ関係を、ルセルクルさんはミルネールを踏まえながら、こうまとめます。ララングとは、曖昧であり、外部にあるものと区別されてもいない。したがって、ラングを基礎づけるはずの、恣意性と分離性の二つの原理から導きうる構成概念ではない、と。ララングは同音性の曖昧さにあふれかえるがらくた袋なのです。
 まず、この同音性と、そこからもたらされる両義性が、さきの二つの原理のうち、分離性の土台を崩していく過剰となります。これはわかりやすいですね。他方、恣意性に関してはララングが持つ直接的動機性がそれを崩していくのだ、とルセルクルさんはいいます。どういうことでしょう?それは、たとえば固有名詞には意味が与えられ、音素は本能的な欲動によって、相対的(時には絶対的)動機性の規則によって動機づけられるから(60)と、ルセルクルさんは、ミルネールのララング論を解釈しながら考えるのです。


 しかし他方で、ルセルクルさんはミルネールの欲望、とくにこの当時のアルチュセーリアンに特有の、科学としての学の基礎づけを、その対象性の明確化から企てる、という欲望に則ったラングの現実的ステイタスに関して同意しません。もし、ミルネールのいうように、無意識において分節化されているというのがラングの特徴であるならば、ラングの自律性や自己原因という公理は維持できなくなるはずです。というのも、無意識によって決定されるのであれば、社会的歴史的状況によって決定されてもおかしくないからだ、と。このへん、ミルネールにはミルネールのいいぶんもあろうとは思いますが(こっちでいくらでも思いつきますが)ここではルセルクルさんの議論に乗っかりましょう。かれによれば、ミルネールの試みでは言語は自律的な非自律性とでもいうべき、ややこしいステイタスを持たなければならなくなる、と論難されます。つまり、話す主体の支配を超えたところに存在しながら、同時に無数の政治的干渉の対象ともなるものでなければならないことになる、と(62-63)。


 ここで、ルセルクルさんがもう一本の補助線をドゥルーズ=ガタリに求める理由が生まれます。ドゥルーズ=ガタリによれば、意味の起源は、発話の集団的アレンジメントのなかに置かれるからです。ちょっと長いですが引用しましょう。

ドゥルーズ=ガタリが主張するのは、まったく無害なものであってさえもあらゆる発話がこうした意味論的緊張関係にと不確かさとを孕んでいるということである。私が自分のテクストであると信じているものは、つねに目に見えない、集団的で非主体的な、第一次の話し手により操られている。それは本来的にスローガンである。こうした考え方は一見こじつけにみえるがそうではなく、むしろ言語学者に「遂行仮説」として知られているものに近い」(68)

 ただしかれらの場合、命令が向けられるのは話し手自身であり、つまり発話者は代弁者であると同時に受け手であることになります。こうした考えから、言葉はさまざまな力の争い合う場としてとらえられ、遂行的表現は非物体的な出来事として物体に物質的な影響を与え、物体はその表現の力に支配されることになります。(69)このへん、ドゥルーズストア派を援用して言う「非物質的なもの」を、かなりわかりやすく解釈した感もなくはありませんが、いずれにせよ、言語遂行論の中に本来ある、そしてしばしば論じられないある種強迫的な「力」という側面をよく押さえていることは確かです。


 ルセルクルさんは、これを言語の物質性ととらえます。

ドゥルーズガタリは言葉の非自律性ばかりでなく、その物質性をも強調する。言葉はそれを発する人間の身体の中に、のみならずそうした身体が形づくる社会の中にとらえられている。この物質性の例が、アルトー「叫び」やフォナジーの音素の直観的動機性という概念である。それはもはや言葉のそして、ミルネールのところでラングの現実性の本質的側面であることがやはり明らかになった、無意識の「象徴的な」分節化の事例ではない。言葉が身体の中へ「現実的に」挿入されてゆく事例である。言葉はただ事物に働きかけるだけではなく、言葉が事物そのものなのである。」(72)

 こうした観点からは、ラングはひとつの多様なプリズム、あるいはさまざまな方言の不安定な集積、パロールの凝塊として(73)とらえられることになります。そして、このララングとリゾームとを、よけいなものの二つの名(78)として、ルセルクルさんは称揚するわけです。



 今回は、さしあたり序と第一章をお行儀良く(?)まとめてみました。以前これに関係する論文を書いたことがある身としては、この辺をたたき台にして、ルセルクルさんの残りの議論も踏まえつつ、ちょっとじぶんの書いたものと関連づけながら自由に書いてみたいと思いますが、それはまた次回以降ということに。



 だってほら、明石家サンタはじまっちゃうし。。。