牛に引かれて

 さて、このはなしの最初の回で、パースせんせいはどうにもこうにもイヤイヤながら、このとっぴな一元論に到達してしまったようだ、と書きました。しかし、パース先生も、なにもみすみす牛に引きずられるままに善光寺までたどりついてしまったわけではありません。パース先生には、数学者としての一分もあったのです。

 パースのいう第三項、あるいは第三性から導かれるような、一般性の側面、つまり、事実の世界とはまったく別の表象の世界の住人としての一般性の概念を、パースはみずからの数学者としての信念、つまり数学的プラトン主義に求めます。数学的プラトン主義とはたとえば「彼らの[引用者注:偉大な数学者たちの]大部分は、虚数リーマン面といった概念の形成が偉大な数学的成果であり、それらの仮説は実在的な量を探求するための単なる道具ではなく、それ自体実在的なものであると考えている。」(「著作集3」、p.72)というようなものです。数学業界でもこれを信じるか否かは人によってまちまちだそうですし、たしかゲーデルはこちらのひとと聞いた記憶があります。さて、その立場を採ると、「純粋数学者にとっては、永遠的なものはひとつの世界、コスモスであり、現実の存在者の宇宙はそのなかに占める一個の恣意的な場所に過ぎない。純粋数学が追究している目標は、まさしくこの実在する潜在性の世界を発見することなのである。」(「著作集3」、p.45)ということになるのだそうです。そういえば、昔知人の知人(えらく遠い関係ですな)の数学者が「科学なんていういい加減なものと数学を一緒にしないでくれ」と曰わっていたそうですが、それも同じ考えから来ているのでしょうね。この「実在する潜在性」のゆえに、みずからの立場は実在論であるとパースは考えます。

 ですから、パースのあの原初の混沌、あの連続体という、とっても電波な発想も、ここに根付くものとしてパースには意識されていたようなのです。

「連続体は、いかなる次元において連続的であろうとも、およそ可能なるものの総体である。しかし、ふつうの論理学で言う一般者または普遍者も、何らかの記述が可能なものすべてを包含する。したがって、まさしく連続体こそ、真の普遍者とは何かという先の問いに対して、関係項の論理学が与える答えである。わたしはあえて真の普遍者と言う。なぜなら、実在論者のなかには、普遍者が虚構であると主張するほど愚かな者は一人もいないからである。」(「著作集3」、p.117)

 そして、こうした普遍者として、パースはコプラ、「である」という言葉を提示します。

「考えられるすべてのものがあるものを共有しているということを観察する方法では、コプラに含まれている意味での、「である」という概念作用は得られない。なぜならそのように観察されるものがないからである。「である」という概念作用が得られるのは、記号−言葉や思考−について反省することによってである。同じ主部にいろいろ違った述部が付けられること、そして、その主部にある概念作用を適用できるようにしているのはそれぞれの述部であること、こういうことをわれわれは観察する、するとわれわれは、主部がそれに当てはまるよう何かを持っているのは、それに(どんなものであれ)述部が当てられるからに過ぎないと想像し、それを、「である」と呼ぶ。」(「著作集2」、p.188)


 このコプラは思考の統一性でもあります。「思考の統一性は象徴作用の統一性にほかならない。一言で言うとそれは整合性−「である」ということの合意−であり、どんな言葉にもある。」(「著作集2」、p.194)そして、そこからパースは人間をこう定義します。「意識の状態はすべて推論であること、それ故、生は推論の列あるいは思考の列に過ぎないことがすでに分かった。いかなる瞬間にも、人間は思考であり、思考は象徴記号の一種であるから、人間とは何かという問いへの一般的な答えは、人間は象徴記号である、ということになる。」(「著作集2」、p.193)ある意味ではここで、存在(あるいは「である」)と思考、人間、そして記号が一瞬にして等置された、といってもいいかもしれません。


 しかし、例によってというかなんというか、ここから、パースは一気に飛翔します。

「私が十分共感を持っている友人に、私の思考や感情を伝達し、私の情態が彼に入りこみ、彼の感じていることを私が意識する時、文字通り、私はわたし自身の頭脳ばかりでなく彼の頭脳の中でも生きているのではないか。・・・人間は同時に二個所には存在できないという、哀れな、唯物論的な、野蛮な考えがある。まるで人間は物であると言わんばかりに! 言葉は同時にいくつかの場所にありうる。・・・なぜならその本質は精神的なものだからである。人間はこの点で少しも言葉に劣らないと信じている。どの人間もただの動物をはるかに超越した同一性を持っている、つまりいかにかすかなものであったとしても、本質、意味を持っている。人間は自分自身の本質的な意義を知ることができない。それは彼の眼の視線だから。」(「著作集2」、p.197)


 様々に考えさせられる一節ですが、いまはまだ細かい解説は無理そうです。しかし、なんといっても魅力的なこの一節のゆえに、個人的にはわたくし、パースを読んでみたいと思ったわけでもあったりします。白状してしまえばこの一節のためにこの尻切れトンボの駄文シリーズが書かれるきっかけとなった一節、ということでございます。象徴的なもの、無意識的なもの、そして集合的なもの。どう解いていったら良いのかは、まだ難しいのですが、とりあえず、まずは手持ちの材料で準備できる範囲を準備してみた、というところでしょうか。と申しますのも、気づかれた方はすでに気づかれたと思われますが、このシリーズ、リファレンスが異様に狭いのです。日本語訳されたパースの著作全5冊分だけ。困ったものです。


 世の中には、とりあえず一冊の本を読んでそれにコメントを付けることの出来るタイプの著者と、とりあえず出来るだけ全部読んでから何をいってるのか考えた方が無難そう、というタイプと、二通りの著者がいるといってもいいと思います。たとえばラカンはあからさまに後者に入ります。あっちゃらこっちゃらで突拍子もなく話題を広げるタイプ、まあ、ひとことで言うと良きアマチュアリズム全開な人たちには良くあることです。パースさんも間違いなくこのタイプで、とりあえずcollected papersと題された大部の論文集に目を通してからじゃないと怖い。まんじゅうくらい怖い。

 勁草書房さんが出している著作集は、あるテーマのもとに編者の方がこの論文集から自由に抜粋して再編したもので、全般にかなり見通しの良いものになっているのですが、それが編者のかたの相当の苦労の産物であるということは、連続講演から二本を割愛して一部講演の順序を入れ替えただけの、「連続性の哲学」(伊藤邦武編訳、岩波書店、2001)を読めばわかります。この話の飛び具合はラカンセミネール級のトンデモ具合で、なかなかに一筋縄ではいきません。

 ですから、論文集を漁ればもっともっと怖いものが出てくるかも、という懸念はいや増しに増すのですが、論文集は厚いうえに高いうえに入手性が悪い、、、と言い訳をですな、ごにょごにょごにょ。
 ですから、まずは出来るところで、オモシロポイント落ち穂拾い、くらいで、邦訳のあるものから幾つか小ネタを拾いつつ、この一節についての理解を得よう、というのが、今回のシリーズの目的でもありました。まあ、さっさとcollected paperが入手できて、じっくり読めれば、またこの一節に戻ってみたいとは思うのですが、今回は紹介まで、といったところでしょうか。