アラビアン・ナイト

 はい、クリスマス・イブに対してえらい挑戦的なタイトルですね。
 さて、忙しいときには本当に仕事は団体さんでやってくる、という愚痴はけっこうちょいちょい書いているような気もするのですが(まあそれだけ普遍的真理なんでしょう)今回は例を見ないくらいお仕事が立て込んでいたりします。しかし、しかしです、偉大なる、とは言いませんが絶対的なるとは言って良い独身機械のメンツにかけても(いつからドゥルーズ=ガタリアンになったのかっちゅう話ですが)、毎年このシーズンだけは何があっても更新せねば、という崇高な義務感に駆られてがんばっていたわけでございますから、今年も外すわけには参りません。というわけで、ちょっと時節に合わないネタではございますが、この話を。

 心的装置、という概念はフロイトが作り、というかプランを立て、そしてそれをラカンが重要視してもろもろ解釈をした、ということはよく知られています。
 ですが、心の構造を何らかのかたちでモデル化しようという試みは、じつはちょいちょい昔からアイデア自体はないわけではないのです。たとえばアウグスティヌスは三位一体のモデルを「精神」と「精神が自己を知る知」と「精神が自己と自己の知を慈しむ愛」とか、さらには記憶memoriaと理解intelligentiaと意思voluntasの働きという風に変奏しています。まあ別にこれに限らずあらゆることに変奏していたような気もするのですが。更に言えば、以前何度かネタにさせてもらった「能動知性」「受動知性」というのも、ある意味では知性のモデルにとどまらず、認識の構造という意味ではこの流れに属するもの、と言って言えなくはないかも知れません。もっとも、特にキリスト教の文脈では、認識することと至福という問題が切り離せないので、あんまり心的装置よりに解釈するのは行き過ぎな気もするのですが。

 ですが、アリストテレスを受容したアラビア人にとっては話はちょっと別です。アリストテレスの伝統はいったんアラビアで受け継がれ、そしてヨーロッパに逆輸入された、というのはよく知られたことですが、この当時のアリストテレスはばりばりの科学者です。科学として受容されていたわけですから、あとで神学者と色々揉めた、というのは、これは洋の東西を問わず同じ。そして、特にアリストテレスの「霊魂論」を(そしてその新プラトン主義的な変奏を)人間知性のモデルとして使っていた、ということも、これまた同じ。ですがひとつの違いは、アラビア人達の方が真面目だったので、預言やその霊視、霊夢みたいなものをその知性構造のモデルの中に取り込もうと頑張ってくれた、という点にあります。キリスト教の伝統だと、この辺は割と神様が勝手に見せてくれた的な扱いが多いような気がするのですが。でも、おかげで精神分析という立場からはとてもありがたいことに、夢や幻覚をある程度真面目に取り組んだ知性構造モデルを作ってくれている最初のほうの例が得られることになったわけでした。

 ということで、今回取り上げるのはファラービー『有徳都市の住民がもつ見解の諸原理』、平凡社刊行の超弩級シリーズ「中世思想原典集成」の第11巻所収です。以降()の数字は同書の頁数ということで。
 さて、くだんのファラービーさんは八七〇ごろ-九五〇の方。中央アジア、アム・ダリヤ川流域ファーラーブ地方のワシージュに生まれ、バグダッドで研究をしていたと思われる、のだそうですが、が詳細は不詳、でも師、弟子の系譜からもバグダッドキリスト教徒文化の中に位置するひとなのだそうです。本書は哲学者の王に支配される有徳の都市の住民の意見を借りて宇宙の全存在者の位階、小宇宙としての人間、理想都市と堕落都市について語ったもの、ということですが、例によって勝手にアラビアン心的装置論として読んでしまいましょう。

 ファラービーさんに関しては、まずこの引用箇所がどうしても目を引きます。ちょっと議論の本筋とは離れてしまう、ということはのっけから脱線というわけですが、のちのちゆっくり考えてみたい箇所だけに、どうしても引いておきましょう。


「第一者がその実体に関して分割されないならば、第一者を他の諸存在者と異なったものにしているその存在は、第一者を本質的に存在者としているところの[存在]以外ではありえない。それゆえ第一者は、その本質である一性によって他のものから異なっているのである。実際、一性の意味の一つは、それによって存在者のそれぞれが、他のものから異なっているところの固有な存在である。各存在者はそれぞれが固有な存在様態で存在している限りにおいて、この意味で「一なるもの」と言われる。」(69)


 そう、ですから、ファラービーさんにとっては一性と「このもの性」とがおんなじに乗っかることになっています。そしてその一性は本質であるわけですから、まあ普通に考えれば質料ではない。ご本人も第一者に関してはこう言っています。第一者というのは現実態の思惟である、なぜなら形相が思惟となり、現実態において思惟することを妨げるのはものがその中に存在している質料だから、ものが質料の必要なしに存在しているとき、そのものはその実体によって現実態の思惟となるはずで、これが第一者の状態である、と。
 こうした固有性あるいは、もっと言ってしまえば個体化と言って良いようなはなしの原理としての一性というのは、どうにもこうにも興味をそそられます。ラカンの読者なら、un comptantとun unifiantの違いというのが連想されるところです。とはいえ、これはまだ確信が得られるほどしっかりとした理解のなかに位置づけられなかったので、さしあたりそうした発想が見られる、というところまで。

 こうした第一者からの個体化(といっていいのかはまだ留保ですが)は、ファラービーにとっては新プラトン主義的な流出論のモデルをとることになります。

「第一者は、その存在から他のものの存在が流出するために自己の本質以外の何ものをも必要としない。第一者はどのような偶有も必要としないし、また以前にはもっていなかったような状態を獲得するための運動も必要としない。」(80)


 というわけで、議論は完全に内在論的です。もし可能であるならば、自己の本質が一性であり、その一性に従って流出し、そしてその一性に従って流出するからこそおのれの本質に固有なかたちで固有な存在となりうる、とまで言って良さそうな気もします。ドゥルーズあたりにどうですか?と聞いてみたい感じ。案外喜んでくれたんじゃないかと思うのですが。

 まあともあれ、この第一者にとっていちばんの喜びは自己の認識。それは、完璧な方法で、感覚、表象、知性的認識で知覚したときにわれわれが味わう快から類推できるが、それが短時間しか続かないのに対し、第一者の味わう快はわれわれにはその真の性質や程度が理解できないほどである、したがって第一者は自己を愛する(76-78)とファラービーは論じます。スピノザ風にちょっと足してみると、まあ第一者がいちばんでかい奴なんですから、それを認識できたらいちばんでかい快が得られるはず、ということになるかもしれません。このように思惟する対象でもあり思惟するものでもあり、そしてそれらが合致すること、というある種の循環構造はずーっと長いことある種の究極の快のモデルでした。これがなぜ、ナルシシズムへと切りつめられていってしまうのか、近代というものを理解する上で本当に重要な問題ですが、それはまた別の話。

 さて、今の話にもあるように、ファラービーさんの理性のモデルは比較的おなじみのアリストテレス的な能動知性と受動知性のモデルです。くだんの太陽光線と視覚のはなしも登場しますしね。ですから思惟は基本的には可能態、つまり目が見る能力を持っているのと同じように可能態にあります。でも、いくら目が見える人だって暗いところでは目は見えない。光が必要です。その光に当たるのは能動知性であり、それが可能態にあった思惟を現実態へと変えてくれます。つまるところ、それが作用主になるわけですね。

 ですがファラービーさんで面白いのは、やはり感覚能力とこの理性的能力の中間に、表象能力を挿入しているところでしょう。もちろん、表象能力的なものを差し挟むのはアリストテレスの昔からあることです。ファラービーの表象能力だって、やっぱり感覚器官の諸活動の作用を受け、それを処理し、保持したり結合したりして、また理性的能力に仕える、という普通っぽいっちゃ普通っぽいモデル。でも面白いのは三番目に模倣というのがくるところ。

 この模倣ってなんやねん、って話ですが、ファラービーの説明によると、それは自己の中に保持された諸感覚対象を模倣する。のだそうです。なんで?何の必要があって?というところですが、それは表象能力は思惟対象を思惟対象として受け取ることができない、それらを模倣する感覚対象によって表象能力は思惟対象を受け取ることができる、という説明がなされています。(117-118)つまり、感覚対象をそれ自体として受け容れ保持するのではなく、一旦自分でシミュレートしてものまねしてみたもののほうを受け容れ保持する、ということでしょうか。このあたり、ちょっと難解です。
 そのあとの、情動に関する説明も追ってみましょう。ある準備の整った欲求能力とたまたまであったとき、表象能力は、その準備状態から生じる行為を合成することで欲求能力を模倣し、欲求能力にその一時的情動が存在するときにその諸器官が行うような行為を実際に行わせる、とされています。「この働きによって表象能力は、ときには道化に似ていて、ときには警告者に似ている」(119)つまり、行為は実際に欲望が起こったから起こるのではなく、表象能力がその欲望の行為によって欲望を模倣したから起こったのであり、表象能力が模倣するものは、実際に生じるであろうものの代替物となる(119)ということになります。

 はい、というわけで、フロイトの読者のみなさんなら、ここを読んで「夢判断」だろうか、あるいは「科学的心理学草稿」の一節だろうか、と思ってしまっても不思議ではありません。つまり、表象能力はただの連結と保持の機能だけではなく、シミュレートの機能も持つのであり、そして理性が受け取るのはそのシミュレートの結果のほうだけなのです。そしてまた、このシミュレートの機能によって、欲動の直接的な暴発を避けることもできるようになります。

 ということは、この表象能力にはかなりの独立性があり、そしてその機能はフロイトが「科学的心理学草稿」のなかで述べているような幻覚の機能に限りなく近づくことになります。

 ね?なんとなく面白そうでしょう?と無理やり同意を誘いつつ、とりあえず次回は、じゃあそこの機能が実際には、とくに夢や狂気ではどのようになるのか、ということを考えてみましょう。


 まあだからって分析してる本人が素敵な夢が見れる訳じゃないんですけどね。。。