神とコラ職人

 さて、前回はファラービーのテキストを元に、理性と感覚のあいだの表象能力、という比較的よくある道具立てのなかに、ファラービーではひとつ独自の要素が付け加えられることによって、なんともフロイト的幻覚っぽい面白い機能が組み込まれていることを見てきました。それが模倣、つまりはシミュレートの機能であり、理性は感覚のシミュレートの機能のほうを受け取っているからこそ、きちんと理性として機能できることになっているのです。

 でも、じゃあ、なにもかもすっとばしてその表象能力に直接アプローチができればどうなるでしょう?いや、一般人だったら「そりゃ狂ってるね」で済ませられるところです。実際ファラービーさんもこう言います。

「また偶然、ある人の体液の構成に異常が起こって、彼の表象力も異常をきたし、その結果、その人は表象能力が合成しただけで、存在もせず、またいかなる存在物も模倣していない諸物を見るかもしれない。このような人々は痴呆、狂人、あるいはそれに類似した人々である。」(122)

なんかデカルトのあの説明の箇所とそっくりですね。フーコー先生の難癖にいやみのひとつも言ってみたくなるところです。むしろそれは狂人を理性から排除するためにあるのではなく、狂人を理性のうちに、あるいは狂気と理性を同一の平面上で捉えるための道具立てになるのではありませんか、と。
 表象能力への直接的アプローチはつねに狂気を意味するわけではありません。ファラービーさんの時代の人たちには、必殺の能動知性があります。そうすると、たとえば霊夢というのは熟慮の媒介なしに能動知性から直接表象能力が受け入れたもの(120)ということになりますし、さらに預言はといえば

「もし人間の表象能力が究極の完全に達すれば、覚醒時においても能動知性から原罪と未来に関する個々の事柄とそれを模倣した感覚対象、さらには離在した思惟的諸対象の模倣物とその他の高貴な諸存在物の模倣物を能動知性から受け入れ、それらを見ることも不可能ではない。」(121)

とされるようになるのです。つまり、本来であれば能動知性によって受動知性の方が作動し、その受動知性の下位グループにある感覚能力と表象能力が作動して受動知性に思惟対象を届け、ということになるはずですが、その能動知性が直接表象能力に作用するわけですね。まさに、神の光線が脳内を照らす、それどころかその光はまさに映画のように未来の個々の事柄を模倣した像を表象能力に送り届けてくれるような状況です。そりゃなんでも見えるっちゅうねん。そしてもしこうした意味での能動知性がデカルトにおいて騙さない神として復権するのであれば、という発想をしてみたい誘惑にも駆られますが、思いつきだけでものをいうともの凄い怒られる領域というのも世の中にはありますので、この辺は黙っておくことにしましょう。そもそもそんな簡単じゃないですしね。。。



 それはともかく、やはり難しいのはこの能動知性という問題、あるいはわれわれにものを見ることを可能にする何かがある、ということなのでしょう。ハイデッガー風に「ものを見さしめる」とか言っても良いかもしれませんが、いずれにせよこれはわれわれには恐ろしいほどに遠くなってしまったようにも思われます。ですから、たとえばデカルトなんかの「自然の光の下で」みたいのを、単純な理性の明証性への信頼と考えることはまったく意味がないのかもしれない、むしろわれわれはつねに「見せつけられてる」ということとして理解せねばならないのかもしれない、と思います。まあファラービーさんの場合はそれが預言とか予知夢になったりするわけですが。。。

 逆に、俗にデカルト以降と言われているようなモデルを考えるとき、わたくしがどうしてもからかい混じりに連想するのは、例えて言えば自分の目の中に光源を持っていて、目の穴からその光を投射して、そこに映ったものを見ている、というような人間です。おまけに困ったことにこの光源は無垢な光ではなく、まさに色眼鏡が目のあたりに掛かっていて、おかげで世界はわたし色に染まってしまう。偏見から幻想といっていいレベルまで、度の強さはさまざまでしょうが、究極的にはそれは光源のつもりが映画の投射機だったりするわけですね。デカルトの場合は、コンテンツは自分では作れない(でもコラ、つうかコラージュならできるけど。狂人はコラ職人だし。。。)そして神様がコンテンツを(まさに神いわゆるなんちゃらって奴ですね)作ったとしても、それは俺のために、俺を騙すために作ったわけがない、ということで、まあ信用して大丈夫だろう、ということになります。これがカフカになると、俺のためにだけ作った神のインチキ映画、というものが出てくるのかも知れませんが、それはまだ遠い先。

 ともあれ、このようなかたちで「狂気」や「夢」がはっきりと組み込まれた、あるいは組み込み可能なかたちで説明された心的装置論というのは、やはりかなり珍しい、最も早いもののひとつのようにも思います。とりわけ、夢や狂気の可能性と通常の人間の理性的活動の可能性をきちんと同時に説明可能なモデルというのは、とても貴重です。中世アラビア世界はおろか中世ヨーロッパでさえろくに知らないのですから、もっともっと掘れば色々出てくるのかも知れませんが、それはまた先の課題。。。



 しかし、ここで最後にひとつ紹介したいのは、次の詩句。



「私は私が愛する者であり、私が愛する者は私である」

 これは愛の神秘家ハッラージュの詩からの引用です。かれは九二二にバグダードのディグリス河畔で処刑されてしまいました。この手の神秘主義思想家の常ですね。異端というか冒涜的というか。しかし、ここで感じて欲しいのは、自己が自己を愛するというのは決してナルシシズムの証拠というわけでは、まるでなかった、ということです。わたしがわたしを見ること、可能態の思惟であり同時に可能態の思惟対象であるもの、が現実に自らを思惟対象として思惟するものに変わる、そこには能動知性、つまり自らを見さしめる働きをする神が理論的にどうしても必要だったのであり、だからこういう風に言うことはむしろ神と恩寵を称え感謝することに近かった、ということです。いつでも、どうしてもこのことは忘れてテキストを読んでしまうのですが。。。