鼻から牛乳

はっはっは締切が少し延びたざまーみろだわ!


と浮かれている場合ではないような原稿の進捗具合のはずですが、試験の前になると部屋の掃除がしたくなるとかほっぽりだしていた漫画を全巻読み通してしまうとか、そういう手合いの人間だった身としては、ちょっと脱線して、前回の落ち穂拾いをしておきたいなあと思ったりしてしまうところです。

 さて、前回は、こんな話をちょいと余談的にしたのでした。俗にデカルト以降と言われているようなモデルを考えるとき、わたくしがどうしてもからかい混じりに連想するのは、例えて言えば自分の目の中に光源を持っていて、目の穴からその光を投射して、そこに映ったものを見ている、というような人間で、おまけに困ったことにこの光源は無垢な光ではなく、まさに色眼鏡が目のあたりに掛かっていて、おかげで世界はわたし色に染まってしまうのだ、と。

 まあ言うのは良いのですが、本来の話題の主であったファーラービーさん(ファラービーじゃなくてこっちで表記するべきでしたね)に、ちょっとそういう持ちネタがあったらしい、ということを補足しておかないと、ちょいと収まりが悪いかなあ、と、いうことで、今回はその落ち穂拾いを。で、元ネタになるのは「新プラトン主義の影響史」(新プラトン主義協会編、昭和堂、1998)から、第9章に所収の『イスラム哲学における後期新プラトン主義の足跡―ファーラービーによるプラトンアリストテレスの調和論』(沼田敦)でございます。とはいっても例のごとく、ここは視覚理論の部分に限定して。
 プロティノスによれば、感覚作用は何らかの形で感覚の対象と結合している感覚器官を通して、魂が感覚の対象と一体化し、感覚の対象と魂が同一の様態を共有することによって生じる、とされているのだそうです。この発想は中世を通じてずーっと残っている気もしますが、ともかく、何かを認識するとは、その認識する対象と何らかのかたちで同化する、ということですね、

 しかし、そこはプロティノス。その同化はもうちょっとスケールアップしています。すなわち、一つの生命をもつ一つの宇宙の部分である「魂」と感覚の対象との間に生じる共感でもある、と。たかだかものをひとつ見るだけでえらい騒ぎですが、ここまで苦労するなら認識が至福っつうのもわからいではない気もしてきます。
 さて、新プラトン主義っつうくらいですから、その元ネタ、プラトンから、「ティマイオス」では、頭の内側から眼球を通って流れ出る光を火であるとし、その光の流れが体外の光の流れと合一すると単一で同質的な物体が生み出されるとされていました。うんうん、目から光線系の元祖の人ですね。

 でも、われらが科学者アリストテレスによれば話は違います。視覚は目の受動によってのみ生じるのだと。他方でプラトンによると、目から発出する何ものかが見られるものと出会うことによって生じる。この大御所同士の意見の対立は困ったものですが、アリストテレス派には根拠があります。だいたい、発出するものがあるというなら、そりゃ物体のみだろう、というのが第一点、第二点としては、また発出するならなぜ暗闇でものが見えないのか、ということになります。うんうん、じつにもっともな反論ですね。
 しかし、プラトン派にも言い分はあります。受動するというのであれば、まったく色を持たない状態から一瞬で無数の色に染められる、ということも起こりうることになるわけですから、そげんダイナミックな変化っちゅもんはよう起こりよらんじゃろう、ということ。変化の定義と相容れない事態を起こすことにはなるまいか、と。このご意見、いまいち説得力があるのかどうかわかりませんが。。。

 さて、ファーラービーによればこの論争の一因は基本概念の誤解にある、ということになっています。すなわち、発出を物質的発出に、受動を性質的変化に限定したところに端を発しているのだ、と。で、最終的には、イデアを神の思惟内容とみなすことで、プラトンアリストテレスイデア論に関して調和させる試みをファーラービーさんは選ぶことになるのだそうです。

 なるほど、こうしてお勉強してみると、人間の理性の光的なものを、人間の内側からの光となぞらえているプラトンから新プラトン主義的形式にまでいたる系譜がはっきりと見えてきます。じゃあ、そこに狂気あるいは神様のどっきり映画みたいなものを位置づける余地はあるのか、というところを次回も、ごくごく簡単な予備知識程度に、ですが、お勉強してみましょう。