空いてる?

 それでは、もひとつ落ち穂拾いついでに、この光という問題と、それから神と狂気について、「新プラトン主義の原型と水脈」(新プラトン主義協会編、水地宗明監修、昭和堂、2000)の第7章に所収の『イアンブリコスの光の思想について(熊田陽一郎)』をお勉強しておきましょう。イアンブリコスさんは、新プラトン派のなかでもプロティノスさんから50年ほど遅れてお生まれ、二五〇-三二五のかたです。今だと「ピュタゴラス伝」が現役で出ているようですね。

 さて、前回まで扱っていたアラビアの思想家同様、新プラトン主義の一部の方々も神と狂気という問題は真面目に扱ってくれているようでござまして、それがイアンブリコスさんのばあい、神よりの狂気theia mania、という問題設定になります。

 なんじゃいそれは?という感じですが、どうも聞くところによるとそれは神々からふる光、それを受けるものに注ぎ込まれる霊、ということなのだそうです。それはわれわれの自意識や自己運動をすべて取り除き、語るものどもの知性から来るのではない言葉を送り出す、と。それはヘラクレイトスがシビュラの巫女について書いたように狂える口によって語られることになります。ただし、ここはだいじなところですが、その自意識ないし自らが存在するという意識さえも神々の存在の意識に根拠づけられている、というところが新プラトン主義的にははずせないところなのでしょう。じゃないと照応してくれないし。

 で、前回ちょっとお話ししたような神様謹製の映画としての預言についてですが、イアンブリコスさんはこういう風に考えます。それは表象能力to phantastikonへの啓示だと。
 どういうことでしょう?それは、魂を囲むエーテル状の光り輝く媒体(あるいは乗り物)を、神の光でもって照らすことで、神聖なる心象がわれわれのなかの表象能力を捉えることなのだ、とされています。だいたいが、そもそも表象能力はその名前自体がphantasia光の顕現ないし幻影に基づいているくらいですから、それで当然だと。ほら、アリストテレスの『霊魂論』では表象能力は視覚が光によって把握し蓄積してきたものを自由に再生し形成するとされているじゃないか、だから光の顕現でしょ?というのがイアンブリコスさんのご意見。

 ともあれ、なるほどこうして見てみると、ファーラービーさんの表象能力という問題と、そこへの直接的メッセージ送信としての狂気ないしは預言というのは、こうした系譜にしっかり位置づけられる、というか、やはり新プラトン主義的理解を通じて受容されたアリストテレスがアラビアで受け継がれたのだなあ、ということが実感できます。

 ここで面白いのは、やはり媒介という思想が、同化あるいは共感という設定とセットになることで生まれてくる帰結、というところかもしれません。魂を囲むもの、ここにある表象能力というのは、まさにヴァーチャルなわけですが、それがヴァーチャルであり得るのは、すなわち潜勢力を持つものであり得るのは、それが力そのものと同質である、ということになります。
 同じような発想はアイテールaetheraな物体、という考え方の中にもあります。これは天体の魂の下に恒久的に魂を分有する別の不死の物体としてプラトン主義者たちが措定したもので、語源的には空気的aereaから来たものです。そのうちのあるものを地上的な物体から解放されたものであると考え、これをダイモーンの身体であるとし、他方のあるものを地上的物体に、つまり人間の魂に内在するものと考えた、のだそうです。

 さらに、この表象能力ということに関しては、ちょっと面白い発想があります。以下はジャン・ジェルソン『神秘神学』からの引用。(『中世思想原典集成』第17巻所収)


「これらの霊的な鏡には、大いなる力、活力と堅実さをもつことが可能であるので、まったく等しい仕方で、何の失うところもなく、より優れた部分およびより劣れる部分から自らの光を受け取ることができ、受け取ったものを保持することができるのである。このことは、時間的なものと永遠なるものとを同時に等しく認識する天使たちおよびほかの最終段階に確立された者において明らかである。」(441)

 なるほど、確かにキリスト教の議論の中ではこの部分はしばしば鏡に当てはめて理解されます。しかしまあ、ついに録画機能が。録画付き鏡。そして、これが時間的なものと永遠的なものを止揚するものだと思われていたわけですね。それが天使です。
 ほんでもって、この発想はトマス・アクィナスにも遡ることができます。こちらは、「新プラトン主義の影響史」(新プラトン主義協会編、昭和堂、1998)所収の『永遠と時間―プロティノスからトマスまで』(小浜善信)から。

 まず、トマスにとって天使はその中にすべてが書き込まれた板であり映る鏡であったとされています。しかし、それは過去現在未来のすべてを現実存在するものとして見通している訳ではなく、何が生起するかを知っていたとしても、時間そのものが展開しその日が現実存在するようにならなければ、その日の出来事をその存在においてin sup esse見ることはない、のだそうです。つまりビデオの分際で任意に再生できる訳じゃない、タイムテーブルがあったのですね。一言で言えば、そりゃテレビだ。
 まあそれはさておき、天使は時間が展開して初めて天使は現実の存在においてそれを想起reminiscentiaし再認recognitioします。でも、神さまはといえば、すべてを現実的な存在において一挙に見終わってしまっています。面白みのない人生ですね。番組は全部HDDのなか、無限倍速再生で見るから鑑賞時間0秒。その後の人生が死ぬほど暇そうですが、神様は死ねない。そらもう、カーズさまじゃありませんが、面倒なので考えるのはやめてるだろうなあ、と思われます。
 他方で、天使の時間も同じように永劫であり、先も後ももたないが、天使の時間認識に関しては先後関係に従って演繹的な展開を伴う、ということになります。


 そんなわけで、この表象能力という、文字通りファンタスティックな次元、妙な中間領域に、困ったことに神的なものがあり、そこが神様と(多分光ケーブルの)ネットワークでつながっている、そして同時にそこがヴァーチャルリアルティーの場だったりもするわけです。
 この中間領域、それはキリスト教の文脈では天使的なものであり、イスラム教の中ではたまに啓示の領域として人間にも接近可能なものになっています。天使はオンデマンド、とはいかずに、つまりプルコンテンツではなくプッシュコンテンツを楽しめる人。人間にとってはその神様ビデオはときおり海賊的に断片が傍受できる程度。まあ多分スクランブルが掛かっているのかも知れない。

 しかしそれでも、人間の中間領域に人間的理性および人間的感性とは違う領域があり、アリストテレスせんせい御考案のその領域に対し、中間領域はいささかも人間的なものではない可能性もあるのだ、ということを新プラトン主義、およびアラビアの思想家達は付け加えてくれています。逆に、中世ヨーロッパの神学者たちは、それが許されるのは天使だけだと限定していましたが。しかし天使なんて脳天気な連中が本当に天使かどうかはわからない。そもそも天使はフランス語や英語で言えばimbecile, 痴愚者なのです。語源的には実体がない、を意味するこの言葉。中世には天使を形容する際にも使われました。と中世思想原典集成にあったのですが引用頁を控えるのを忘れてしまった。。。いずれにせよ、セミネールの20巻でラカンが天使のことをimbecileと言っているのには、ちゃんと背景があったということになります。

 ともあれこうして、天使、痴愚、狂気、そういった柱が見えてきます。それはある意味で人間にとって記憶を担うべき中間領域が同時に他者と共有されネットワークにつながっている領域であり、そのとき人は愚かか狂っているかどっちか(あるいはどっちも)である、というところでしょうか。。。

 そう考えると気になるのは、以前もちょっと話したデカルト的狂気の問題だけではなく、カントにおける構想力の問題、およびそれをどうしてカントが消去することになったのか、という問題ということになるのかもしれませんが、それはまた別の機会に。今言えることはたぶん、人間にとっての狂気の可能性を認めることで、同時に人間はコンテンツ制作者への道を許されることになった、そしてカントにおいてその狂気の可能性はあいまいであり、ヘーゲルにとっては明解であった、ということになろうかなあ、と思います、と、いうところまで、ということで、ひとつ。

 それでは皆さんよいお年を。