夏みかん

 すこしまえの、ある日のことです
 研究室の誰かがカップ焼きそばを作り始めました。ご承知の通りあの匂いは強烈です。というより、下品なほどに食欲を惹起するというほうが良い言い方でしょうか。べつだんそのときお腹がすいていたわけではさらさらないのですが、なにか買ってきてつまもうかな、と思わせるあの昼下がりの匂い。

 ラカニアンならそこで、うんうん主体の欲望は他者の欲望だね、と、ヘーゲリアンなことを宣っておけばよいわけで、じっさい普段はそうしていたのですが、考えが変わったのはある日のこと、だれかが親元から送られてきたという夏みかんを剥きはじめたときでした。初夏の昼下がりのむさ苦しい(いや本当に汚いんだ、床に落ちたものは3秒以内だって絶対に食べたくないんだと、声を大にして力説したい)研究室にあざやかに漂ってきた薫りは、なんだかものすごくはずむような気持ちに、やっぱり食欲を刺激したのでした。

 いやオチは一緒かい、というのは早計です。この時の食欲には確かに差があった。前者が、食べたくないんだけどなぜか妙に食欲がわく、という、どこか虚しくも苦しい食欲だったのに対して、後者は本当になにもかも鮮やかで、みんなは幸せな気持ちで夏みかんを分け合って食べる(まあわたくしのものではないのですから、有り体に言えばたかったわけですが)ということになったわけですから。

 夏みかん一つでそこまで幸せになれる、貧窮学生達の苦境を忍ぶのももちろん良いことですが、ここで考えるべきだったのは、やはりこの二つの食欲の差異というものでしょう。

 さて、この初夏をみずみずしく彩った香りの記憶をどう説明したものか、色々考えていたのですが、こういうふうに感覚的に強い印象を残しつつも、それについて無理に結論を出そうとしないで放っておくと、かえっていろいろなことがそこに流れ込むように結びついていってくれることは、よくあるものです。この場合も、ヒントはいろいろなところからやってきました。

 このちがいを上手に説明してくれる一つは、むかしSM業界のビッグネーム、団鬼六氏がどこかで書いていたある文章でしょう。団氏によれば、バイアグラはこれまでの他のいかなる媚薬とも違ったのだそうです。なぜなら、他の媚薬なら、気持ちが高まり、感覚が鋭敏になり、その結果勃起に至ったのに対して、バイアグラは本人の感情とは無関係に勃起するからだ、そのさまは苦痛なほどであった、と。わたくしはべつにカップ焼きそばに恨みはありませんが、たしかにどこか暴力的に食欲を刺激されている感覚は残ったものでした。

 さらにもうひとつ、ある夜の研究室でおとこどもが雑談していたときのこと。わたくしをのぞいて全員既婚というこの不届きふしだらなおっさんたちの集いで、性欲とは何によって現働するかが話し合われていたのでした。われわれはとても哲学的なおっさんなので、もちろんこの話題は可能態と現実態というアリストテレスの区別にのっとって行われたことは言うまでもありません。念のため。
 しかし迷わず「いやいいもん食ったときでしょ、っていうか食ったものがそのまま出るだけでしょ」と答えたのは、常日頃の貧窮生活のなか、最低限の摂取カロリーで生きているわたくしだけであり、奥様のおかげで良いモノを食っている家庭持ちの軟弱ものたちはみな「いや刺激というか変化だよね」とのんきなことをのたまうのでした。わたくしが深く深くいじけて泣きながら帰ってきたことはいうまでもありません。

 まあそれはいいのですが(あんまり良くないけど)さらにそれに加え、たしかに無聊を慰めるべくエロ動画のたぐいを落として聊かまた自ら密かに楽しむときと、普通に女性から刺激を受けるときの感覚には、そこにも確かに違いがあります。どちらも刺激因であることには変わらないわけですから、これは考えてみれば奇妙なことですが、たしかに前者の時に感じるあの妙に疲れ果てた気分と、後者の時の充実感にはちがいがあります。

 さて、だんだん話が下品というかあからさまになってきた気もするので、ここらで気を取り直して話をまとめると、まず人間にはもろもろの欲(食欲でも性欲でも)が存在する。存在した段階は、とりあえずここでもアリストテレスの区別に従って、可能態といいましょう。つまり、いつでもそれを現実に発現させることはできるけど、今はまだ発生していない状態です。ついで、現実態があります。これは、ともかく何かお腹が減ったとか、可愛い女の子の太ももにむらむらしたとか、そういう状態です。そう考えると、今までの話は若干のぶれはあるとはいえ、みな「なにが可能態を現実態にするのか」という問題であると整理できることに気づきます。よし、だんだん調子出てきた。

というところで、次回はこうした事例をいくつかにケース分けしつつ、そのケース分類にうまくはまらない何かを見いだしていくことで、新しい問題設定の視野を開いてみることにしましょう。