バケツプリン

 前回は、いくつかの庶民の生活のささやかな側面から具体例を拾ってくることで、もろもろの欲が可能態から現実態に変化するとはどういうことであるかを考えてきたわけでした。人間には食欲がある。そしてある日ある時お腹がすいてお腹がすいてたまらなくなる。これが、可能態にあった食欲が現実態へと変化したということです。

 さて、そう考えるとこれに対しては、ここまでの実例(というか小ネタ)から、いくつかの仮説が提示できることになります。

1番目は、おのれの可能態を上昇させる。この場合は、可能態というより潜勢態というほうがしっくりいくかもしれません。文字通りポテンシャルをあげる、という奴ですね。とにかく飯を食え。運動しろ。そんな話です。そうすれば、いきおい可能態は現実態に移行するであろうと。いいのかドゥルーズ、内在性の強調ってこんなことなのか、と茶々を入れてみたい気分ではありますが、まあこれはもちろん冗談です。

2番目は、なにかの外的な要因が必要であるという考え方です。変化、刺激。しかし、これを仔細に見ると、二つに区別できることが分かります。ひとつは、触媒モデルとでもいいましょうか、外部の刺激因はそれ自体としては変化せず、わたしだけがその刺激によって変化するというもの。まあなんぼ見たってエロ動画は変化しませんしね。もうひとつは、外部の刺激というにとどまらず、ドラゴンボールの「元気を分けてくれ」式に、他者からエネルギーが流入してくると考えるもの。まあ、相手の女の子のはつらつたるさまに刺激され、ということもありえましょう。ですから、後者の方を3番目として独立して切り出すことにして、こちらは流入式と呼びましょう。
 1番目と2番目は、しかしある意味ではおなじものです。どちらも、要はおのれのエネルギーを燃焼させる、ということなのですから。いずれにせよ、遅かれ早かれ自分が燃え尽きます。3番目は、他人からエネルギーが流入してくるわけですから、それなら素晴らしい、といいたいところですが、エネルギー論的な観点から言えば、そりゃ他人が消尽するだけの、いわば吸血的な消費に終わる可能性だって高い。

 しかし、前回おはなしした夏みかんの香りがそのどれでもなかったことは、なぜかとてもわたくしの中では確かだったような気がするのです。それは、客観的に言えば、夏みかんという刺激因が、みずからの力を(香りはだんだんと失われるわけですから)消尽させ、わたくしに刺激を与えることで、わたくしの欲求が現実態に変わったというだけに過ぎないはずです。しかし、そのときに感じた世界の拡がりは、わたくしが相手を消尽させたわけでも、わたくしが単にそれに刺激されて食欲がわいたというだけでもない。もっと言ってしまえば、その香りによってわたしの食欲そのもののポテンシャルが上がった(たとえば旬の果物の魅力に目を開かされ、すっかり甘い果実に目がなくなってしまったとか)、というだけでもない、そんな感覚を覚えたわけでした。

 この感覚を上手に説明してくれる一つの例は、もしかすると音楽家かも知れません。せっかくですから、youtubeで見つけた二人の音楽家の同じ曲の演奏を拾ってみましょう。レオニード・コーガンとダビッド・オイストラフ。曲目はショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第一番からカデンツァ。若干箇所はずれてしまうのですが。

まずはコーガンから


続いてオイストラフ

 よく知られたことですが、20世紀後半のソビエト・ロシアの音楽家には、楽器別に光と影の演奏家の組み合わせがあります。ピアノならリヒテルとギレリス。ヴァイオリンはオイストラフとコーガン。チェロならロストロポーヴィチとシャフラン。もちろん、それぞれの組み合わせの前者と後者の比較事項は必ずしも一緒ではありません。完全に前者の影となってしまったコーガンやシャフランに比べ、ギレリスはリヒテルと双璧といっていい立場を保つことができましたしね。とはいえ、ひとつ共通点があるとしたら、後者は異常なまでに高い技術と、そしてマニアックなほどの美音へのこだわり、圧倒的な集中力があったにもかかわらず、ほとんど自然の猛威としか言えない前者をまえにすると、どこか対抗しきれない感が拭えなかったところでしょう。
 じっさい鉄のカーテンの雪解け後の60年代にリヒテルロストロポーヴィチとの西側ツアーにおつきあいした、というか西側が対抗すべく送り込んだ最大の大物というべきカラヤンせんせいが、この両者の自然の猛威の前に辟易したという話にもあるように(アイツら好き勝手やりくさってから、とボヤいていたらしいと伝説は語っていますが、さて。)このへんのひとたちのポテンシャリティというのは、もうほとんどどっかいっちゃってるレベルです。

 ここで見て頂いた二人のカデンツァからも、そのあたりはある程度伺えるのではないかと思います。コーガンのこの曲の演奏の集中力は異常なほどで、ボウイングももうどうかしてるぞおっさん、というくらい鋭利な切れ味を見せています。にもかかわらず、コーガンの演奏はどこかで、彼自身を消耗させまくり、消尽させてしまっている気配が強いのです。
 オイストラフはその点に違いがあります。この人は本当に妙な人で、いったん曲が始まればどこまでもエネルギーのポテンシャルを増大させられるようなバカバカしいほどの膨らみと拡がりが炸裂するタイプでした。なんかもう、天上からも地上からもエネルギーを吸い上げていけるような印象さえあります。

 オイストラフは享楽的なおっさんだったといいます。フルーティストのランパルと仲良しで、二人で大好物のプリンの早食い協奏、失礼競争をやったときにはバケツ大のプリンをふたりともぺろっと平らげ、周囲で見ていた人の方が気持ち悪くなったという逸話があるそうですが、それがあのぷくぷくで巨大なほっぺに反映したのでしょうか。ヴァイオリン弾きの音色の差は顔の大きさに影響される、というのがとある優秀なチェロの先輩の意見でしたが、まさに豊穣。しかしそれは、おそらく自分のエネルギーを消費しているわけでも、他者のエネルギーを流入させているわけでもなさそうです。

 以前にもちょっと触れたように、(このへんとか)19世紀の天才論は、自然から失われた能産性を天才と呼ばれる個人に割りふることになっています。ですから、このように演奏家を経由してわき出る(というか聴衆に伝えられる)エネルギーからその演奏家の資質を論議するというのは、われながら見事にアナクロな、よく言えば伝統的なはなしのもっていきかたなので、ちょっと恥ずかしくはあるのですが、ちょっと言い訳をしておくとそれは、「消尽したもの」としてのコーガンが、同じように消尽した作曲家であったショスタコーヴィチ自身とあいまって、あまりに強烈な印象を残したからでございます。オイストラフは、まあ、いわばおまけ。でもコーガンこんなに頑張っても勝てない。

 とはいえ、この曲のコーガンの演奏は悲痛を通り越して壮絶なもので、演奏史上これほど苦痛に満ちた鋭利さを湛えた演奏はあるのかと思わされるほどです。そして、まだなんと説明して良いのか分からない、とりあえず、自分の消費でもなく、他者からの流入でもない、海のものとも山のものともつかぬエネルギーモデルのオイストラフとは違い、コーガンは明確に、おのれを消尽しきっている感があります。ついでにいうと聞き手も消尽します。でも、個人的にはコーガンが好きなのです。わかるもの。オイストラフはもうなんか別の生物というか、なんかもう自然の猛威としかいいようのない圧倒感がありますが、崇高なものは理解不能なのです、とカント風に。。。

 だから、たぶんこれが現代人のあるべき姿なのでしょう。ということで、現代人のあるべき姿を描いたショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第一番第3楽章から、現代人のあるべき演奏として、コーガンを。この部分のあとに、上で紹介したカデンツァが続くことになります。

 個人的には、この曲は酔っぱらうと必ず頭の中をぐるぐる駆けめぐる曲なのですが、しかし、それはコーガンの音であってどうもオイストラフではありません。



 こうして、議論のポイントの印象ははっきりしてきました。自分のエネルギーを燃やし尽くすでもない、他者からエネルギーをわけてもらうわけでもない、そうしたエネルギーの能産というものがあるとしたら、それはどのような形であり得るか。
 問題はちょっと難しそうです。