チャンス・オペレーション?

 さて、そうしたわけで、ここまでで問題なのは、まずは潜勢的なもの、という概念であることは想像がつきます。

 ここでむずかしいのは、とりあえずアリストテレスの可能態と現実態には、見た限りのところあんまりこうした他者との関連性がない、ということでしょう。もちろんアリストテレスにも、胎児や胚のように合着することで、という考え方もあるわけですが(『形而上学』第5巻第4章)基本的には何かに加工されうるものが可能態で加工するものが必要であったり、あるいは対照的に始動因を内在するのが自然の定義であったりと、色んな対象に可能態現実態が使われることによってもたらされる混同があります。いや、もしかするともしかしなくてもアリストテレス学的にはちゃんとした解釈があるはずなのかもしれないけど、とりあえずいちげんさんが見た限りではちょっとむずかしい感じ。

 というわけで、ここは視点をちょっとずらして、アリストテレスの能動知性、受動知性という考え方から影響を受けたアラビアの思想家達に目を向けてみましょう。
 かれらには、潜勢的であったものが現実的になるのはどうしてか、というテーマがものすごくはっきりと中心的にありました。このはなしはなんどかちょいちょいしましたが、ごくごく簡単に、目でものを見ることが知性の比喩であるとすると、目そのものがもっているものを見る能力は、太陽の光がなくては発揮できません。ですから、目の方は受動知性で、目にものを見せしめている(目にもの見せてやるって訳ではないでしょうが)太陽の光の方が能動知性。いわゆる照明説というやつですが、つまるところ、現実態を付与するものがなければ、それ自体で潜勢態から現実態に移行することはないから、というのがその考え方の基本です。ちなみに、ガザーリーの『光の壁龕』には、神以外に光はなく、人間は神からその存在を得ているに過ぎない純粋無の闇であるとし、究極の光として神から出る知識が現象界のさまざまな形象により翻訳されて人々に伝えられるため、それらの解釈にあたっては夢判断と同様にその象徴的・内的意味を明らかにすることが必要となるとされております。つまり、この光、人間の手元にとどくまでにいろいろ劣化しちゃうってことかしら、と考えたくもなりますね。

 そうすると、人間の知性を発動させるのは、もっと大きく言っちゃうと人間の始動因となるのは、この能動知性ということになります。さてさて、太陽ならたしかにそこにあるけれど(いやそこといってもずいぶん遠くですが)能動知性ってどこにあるの?という問題はさておいて、イブン・バーッジャ『知性と人間の結合』には、人間の第一動者たる、現実態にある思惟とは、現実態にある思惟対象である、つまり現実態にある思惟は現実態にある思惟対象である、それゆえ問題は思惟対象のおのおのは数的に一であるか、ということになるという疑義が提示されています。ここから、イブン・ルシュド、ヨーロッパではアヴェロエスという名で知られるようになりましたが、彼の有名な知性単一説が出てきます。つまり、永遠不滅にして唯一なる能動知性が個別霊魂に顕現したものとして可能知性を捉えることになったのです。ちょっと乱暴な言い方をすると、インターネットのネットワークに散在する知を能動知性とすると(ちょっと無理があるけど)そのネットワークに接続する個々のコンピュータの筐体自身の特異性はなんら問題にならない、ということです。シンクライアントシステムと呼びましょうか。つまり、ネットワークに接続を許されているからコンピュータなのであって、したがって何がコンピュータかはネットワークが一義的に決めるわけだから、すべての個々の筐体は一義的である、ということです。

 これに対する批判がトマス・アクィナスの側から行われ、うんちゃらちゃらという話は、とりあえず省くとして、いちおう手順としては、潜勢的virtualiterということになると、ドンス・スコトゥスを引っ張ってこなくてはいけない決まりになっています。イヤだけど。(こんなものがすらすら分かる人はラカンなんてわらべ歌なみだろうといっつも思うんですがジルソン先生)ここではたとえば、「目的は結論の真理を潜勢的に含んでおり、結論の基体よりも完全である」という彼の見解を引きましょう。技術的な制作的認識の原理は制作可能なものにおける目的から捉えられ、原理のほうが結論より真であるから、というのがその説明です。そして、作出しうるものは最も現実態的である。なぜなら、潜勢的にすべての可能な現実態性を含んでいるからである、ともされています。こうすることで、第一の作出者は知性認識するものであり、かつ意思するものであり、それゆえに、あるものは偶然的に原因されるという結論が導き出されることになります。だから、第一原因は偶然的に原因し、したがって意思するものとして原因するのであり、いかなるものも意思あるいは意思に伴うのでなければ偶然的に作用する原理ではないのだと。こうして「第一の原因するものは何を原因するのであれ、偶然的な仕方で原因する。」というかたちで、潜勢的なものをすべての可能な現実態を含み保つものとして定義することで、現に存在する存在者ens existensの偶然性を残すことができると考えたのでしょう(たぶん)。

 というわけで(なにが?)ここではちょっとみたところ、第一の作出者のもつプランというかアイデアというか企画書というか、そっちにはすべてのことが書かれているかも知れないけれど、どれが実現されるかは意志により偶然的という、ピエール・ブーレーズもびっくりな管理された偶然性が見られる(のか?)わけですが(ものすごく自信がない)、それは、単一知性の側から見た個体の一義性というか無差別性に対して、その個体性、特異性を取り戻してやる試みとして成功している、のかどうかはよくわかんないのですが、ともかくそういえそうな流れではあります。

 さて、この手のややこしい話を解決するときには、どういう訳か神秘思想家が役に立つ、という個人的偏見のもと、ここではマイスター・エックハルトの潜勢的という概念の使い方を参照してみましょう。ここでは、「エックハルトにおけるcausa essentialis論の受容とその変容」(山崎達也著。「新プラトン主義の原型と水脈」(新プラトン主義協会編、水地宗明監修、昭和堂、2000)第11章に所収)をお勉強することで、そのあたりを見ていきましょう。


 さて、ヨハネ福音書註解において、エックハルトの御言葉と潜勢態についての解釈は次のようなものになっています。
①本質的始原のうちには始原から生じたものが含まれている。
②その始原から生じたものは、その原因のうちに先住しているのであり、それ自身におけるより卓越した仕方で存在している。
③その始原それ自体は絶えず純粋な知性intellectus purusであり
④始原のうちにおいては始原それ自体と共に結果は潜勢的にvirtute同時に存在している。
 エックハルトのたとえによると、たとえば、熱は太陽においては太陽を規定することはない、つまり太陽に熱の本性と存在を、太陽という名を、与えることがないように、熱は太陽においては形相としてあるのではなく、霊的にspiritualiter潜勢的にvirtualiterあるのだと。すべての事物はその原因から外へ導かれ産出されるとき初めてそれに応じた形相的存在を受け取り、これこれの存在者ens hoc et hocとして存在するのであるから、形相はこの世に存在するものであって、神のうちに存在するものではない、ならば、とうぜんすべてのものは潜勢的存在と形相的存在の二重の存在を持つことになります。前者は創世記の「上の水aquae superiores」にたとえられ、自らの本源的な諸原因のうちに、神の御言葉のなかにある確固とした恒常的存在であるが、後者は「下の水aquae inferioes」外的な世界におけるものの存在であり、弱く変化しやすいのだ、とエックハルトせんせい。このあたりはらしいところですね。

 さて、この形相的存在は絶えず無へと差し向けられているから、常に創造的根拠からみずからの存在を受け取らなければならない。更新してないとあかんわけですな。そして、「神のうちにあるin deo」存在あるいは潜勢的存在は、形相的存在の原因でありながら、その目的でもあることになります。すべてのものの潜勢的存在は始原のうちにある限りにおいて世の創成以前に宇宙のすべてのものが有していた存在であり、世界が創造される以前は無であったのではなく原初的で本質的で本源的な原因における働き、すなわち御言葉の働きが有ったことを意味しているのだ、と。

 ついでに同じ本の第12章から『プロティノスベルクソン』(田中敏彦)を拾っておくと、潜勢的共存とは純粋過去としての記憶であり、われわれの記憶は無限の緊張と弛緩の程度において潜勢的に共存していて、それは『創造的進化』においては個人的な記憶から宇宙全体に拡張され、宇宙的次元の潜勢的共存の現勢化が生の飛躍とされる、となっています。御言葉は宇宙的次元に、神の意志は生の飛躍に。

 さて、とりあえずこういう下準備をしておいて、次回はクザーヌス、というか、カッシーラーせんせい紹介するところのクザーヌスを通じて、ルネサンスからバロックへと抜けてみましょう。