メディア型人間

 例によって話が流れ流れてきてしまいましたが、ここで前3回までの話をいちおうまとめ直しておくと、問題なのは個人の潜勢力の有効な開発(搾取?)でもなく、さりとて他人からエネルギーをもらうというわけでもない、そんなかたちの潜勢力というものはありえないのだろうか、ということでした。もっといってしまえば、誰をも消尽させないようなもの。

 そんなもくろみのもとに、とりあえずは潜勢的ということばの流れを、メジャーなところだけでもピックアップしていこうということで、アヴェロエスほかのアラビアの思想家を皮切りに、ドンス・スコトゥスエックハルトと来て、さて、おつぎはニコラウス・クザーヌス

 そこに至るまでに、アラビアの思想家たちには、太陽にも擬えられる能動知性が完全現実態としてそこに、それも単一なものとして存していて、可能態を現実態に現勢化させるばかりではなく、最終的にはみんながそこに融合しちゃえばいいじゃん?的な理念もあったりするわけでした。まあ単一ってくらいだし。それが浄福ってものです。ドンス・スコトゥスにおいてもその伝統は一部保たれていて、やっぱり作出しうるものは最も現実態的である、なぜなら、潜勢的にすべての可能な現実態性を含んでいるから、となっています。もっとも、ドンス・スコトゥスの場合は、その作出に意志と偶然性という要素が入ることで、個体化の原理を残そうとしているのですが(ってことでいいのかしらホントに?)。そしてわれらがマイスター・エックハルトになると、この潜勢態の部分は御言葉によって担われることになり、形相はつねにこの潜勢にネットワーク接続してエネルギー補給することになります。
 こうしてみると、いまんとこ、たしかに個人の潜勢力ではないけれど、なんか話が別の広大な一者からの流出論的なはなしになってしまったぞ?という気がしないでもない流れになっていて、ホントに答えにたどりつくかますます頼りないことになっているわけですが、ついでにお皿も食べるということで、つぎはニコラウス・クザーヌス、というところから今日のお勉強。ネタ本はエルンスト・カッシーラー「個と宇宙 : ルネサンス精神史」( 薗田坦訳、名古屋大学出版会 , 1991)ということにいたしましょう。

 さて、カッシーラーせんせいのおっしゃるようには、こうした問題に関して

「クザーヌスにあっては、新プラトン主義的な意味で創造的な力として受け取られるのは、イデアではない。そうではなくて、彼は一つの具体的な主体を、あらゆる真に創造的な活動の中心点かつ発生点として要求する。そしてこの主体は、彼によれば人間精神以外のどこにも見出され得ない。」(52)

 なるほど、さしあたり全部イデア的なものにエネルギー源が行ってしまうという事態は避けられそうですが、しかし逆に、自分のエネルギーを燃やし尽くせ、ということになったら、やっぱり元の木阿弥です。
 しかし、ここでの主体というのは、クザーヌスの場合ちょっと面白い位置を占めています。それが中間の本性natura media。何の中間かといえば、それは無制約なものと制約的なものとの、イデア的な叡智界と物質的な現象界との、神と人間そのほかもろもろとの中間です。クザーヌスにとっても、この二つの間は峻別されている、というより、誰よりも強く峻別されています。そもそもが、人間知性は有限であり有限では無限を測る尺度には成り得ない、というところからスタートする否定神学の親玉格でもあるわけですから当然ですが。

 しかし、クザーヌスせんせいは居直ります。居直ってこう言います。「真理は街角で呼ばうる。」(『究極的観照について』)

 選挙カーか風俗の客引か、なんのこっちゃいという話ですが、カッシーラーはそれをこう解説します。

「そして「究極的観照」としてクザーヌスに現れるのは、今や次のような洞察である。すなわち真理は、初めには神秘主義の暗闇のうちに求められ、あらゆる多性と変化に対する対極として規定されてきたが、にもかかわらず、それはこの経験的多性の領域のただなかに自らを顕わし、街角で呼ばうるものである、という洞察である。」(46)


 つまり、真理は至るところに内包されているのです。それをクザーヌスは「人間性の一性は、人間的な仕方で縮限されて現存するゆえに、その極限の本性に従って万物を包含している」(108)と説明します。そして、それぞれの個体は、それぞれの状況に合わせて真理を展開させ、言ってみれば開花させます。もちろん、それぞれの個体は有限な個体ですから、この真理を完全に展開させきることのできるものはおりません。「ただし縮限的に万物であるのではない。なぜなら彼はまさに人間なのだから。それゆえ人間は小宇宙ミクロコスモス、あるいはいわば人間的世界である。」(108)

 そうすると、人間にとっての目標というのは、この展開ということになります。それをクザーヌスはこう言います。

「それゆえ人間性の創造的活動の目標は、人間性以外には存在しない。と言うのも、それは創造することにおいて自らの外へと進むのではなくて、むしろその力を展開することにおいてそれ自身へと到達するからである。何らかの新しいものを創り出すのではなくて、むしろそれらが展開によって創造する全体が、すでに自己自身のうちにあったことを確知するのである。」(109)


 そして大事なのは、こうした展開のもっとも模範的な例こそが、イエス・キリストであったということでしょう。こうしたおのれのうちに存し、展開する力がある、と考えると、どうしても経験的自己に代わるものとして、普遍的な自己が、人間そのものの精神的内実が現れる必然性が出てきますが、それがキリストに含まれるとクザーヌスは考えるのです。純粋な展開として。それゆえキリストのみが真正なる中間の本性natura mediaであり、有限なるものと無限なるものを一つにするのです。

 この、包含complicatioと展開explicatioをまとめたカッシーラーの文章はたいへん美しいものです。ちょっと長いですが、そのまま引用しましょう。


「歴史的実在の解釈も、今や「包含」(complicatio)と「展開」(explicatio)という基礎的対立項のもとに置かれる。この実在もまた単にある外的な「事象」ではなくて、人間に最も固有な行為として現われる。かかる歴史のうちでこそ、人間は真に創造的で自由なものとしてその真価を発揮することができる。人間があらゆる偶然的出来事の進行のうちにあり、あらゆる外的状況の束縛のもとにありながら、しかもつねに「創造された神」であることが証示されるのも、ここである。まったく時間のうちに、それどころか一瞬ごとの特殊性に閉じ込められ、瞬間の諸制約へと巻き込まれながら、しかも人間はそれらすべてに抗して、たえず「そのつどの神」(Deus occasionatus)として現われる。彼は彼自身の存在のうちに留まり、人間に特有なその本性の限界を決して越えない。しかし人間は、まさにこの本性を全方面に展開し表出することによって、人間的なものの形成と制限のうちにありつつ、神的なものを表わし出す。人間もまた、いずれの存在とも同じく、自らの形式を完成し現実化する権能を有するからである。彼はこの形式、このような彼の限定を肯定してよいのであり、それどころかそうしなければならない。実際、彼はそうすることによってのみ、この形式と限定のうちで神を崇め、神を愛しうるのであり、また自らの出自の純粋性を表明することもできるからである。」(54)

 ドゥルーズがそのスピノザ論で展開と内包というテーマを非常に重視していたことはよく知られていますが、スピノザのなかから直接取り出した、というにはちょっと強引な力点の置き換えだなあ、と、思えなくもなかったのでした。しかし、スピノザルネサンス的伝統との継続性という観点からは、むしろ自然な読解だったのかしら、と、ちょっと自らを恥じつつ考え直したりもします。

 さて、次回は、そこから個体化の問題をエロスという視点で捉え直していくことにしましょう。