エロスなインストール

 さて、前回までは、ニコラウス・クザーヌスの包含complicatioと展開explicatioをまとめたカッシーラーを引用しつつ、流出論のアポリアである「なぜ流出せねばならないのか、そしてそんなにも強烈な断絶があるのなら何故それは起こったのか」という問題が、中間存在としての人間、というかその人間になったキリストというモデルを通して止揚され、さらにそこにあらわれる個体化の原理が、というところまで話を進めてきたのでした。

 こうして、ニコラウス・クザーヌスは個体化の原理principium individuationisを獲得し、そこからアヴェロエス主義の批判を行うことができるようになります。感覚的なものと知性的なものの間には絶対的分離は認められない。知性は感覚的知覚の存在を通じてのみそれ自身の完成とまったき現実態に到達できる以上、感覚的知覚の内実的対立を必要とするのだ、と。つまり、精神が活動的になるにはそれに相応する適切な物体が必要であり、それゆえに思惟活動の分化と個別化が身体組織のそれと歩調を合わさねばならないのです。ポンポナッツィの論証はさらにしばりを厳しくして(インストール基準が厳しいのかしら?)意識主体の特殊化は対応する客体的特殊化を設定すること無しにはあり得ず、身体の全般的個体化を通してのみ成立するとしています。こうした個体化により身体は単なる物質から区別され、その個体的規定性において具体的個別的生命を担う有機的な身体となるのであり、こうしてようやく、霊魂は身体を初めて形成するものとなり、それも単なる補助的形相forma assistensではなく真の形成的形相forma informansとなり、ただ一定の物的基体のもとでのみ発揮されうるのだとしています。

 カッシーラーはさらに、フィチーノらのエロスについての考えを援用してこれを補強します。質料は単なる形相の対立物あるいは端的な悪ではなく、そこにおいてすべての形相の活力が発揮され確証されるものとなり、エロースはここで本質的な意味において世界の絆となるのだと。というのも、エロースこそ世界内のさまざまな要素や領域のいずれをもおのが圏内に取り込むことによって不等質性を克服するものだからです。

 そう考えると、人間の人間的本質は、あるいはエロースであるということもできるかもしれません。
 なぜなら、カッシーラーがピコ・デッラ・ミランドラを引用して言うように、人間の作用は、いかなる限定された圏域をも超出する可能性を内包しているからです。そしてそれをこちらで補強すれば、それはエロースと呼ばれるのではないか、ということもできましょうから。ついでにいうと、ピコは「その本性は叡知的存在の世界もまた羨むであろう。創造の規則、その確固たる形式が人間のうちのみで破棄されている。」という風に言っていたそうなのですが、つまるところ叡知的存在は人間のエロースを羨む、ということなの?とからかってみたくもなります。いや、別にベルリン天使の詩ではありませんが。

 ついでに、カッシーラーがピコの説を敷衍しながら述べた一節も引用しておきましょう。テキストは引き続きカッシーラーの「個と宇宙」から。

「世界に対するこのようなまったき開在は、他面決して世界における消尽、神秘的-汎神論的な自己喪失を意味しない。なぜならば、人間の意志は、いかなる個別的目標にも満足し得ないことを自覚することを通じてのみ自己を把握し、人間の知もまた、単なる個別的内容が決して自己を充足させ得ないという自覚によってのみそうするからである。」(107)


 そう、こうした「中間」「媒介」そしてエロスが、ルネサンス哲学を彩ることになるのです。なんかちょっとデラシネで欲求不満っぽくもありますが。

 とはいえ、ここではまだ、創造ということばはわれわれがイメージするような創作とはちょっと違う可能性もあるということは触れておかねばなりません。カッシーラーは言います。「神が事物の実在性を創出するとすれば、人間が建立するのは観念的なものの秩序である。前者には、「存在を生む力」(vis entificativa)が帰するなら、後者には「同化的な力」(vis assimilativa)が帰せられる。」(84)そして、クザーヌスはそれについて「神的精神の把捉コンセプチオはものの産出であり、われわれの精神の把捉はものの認識なのです。神的精神が絶対的存在性であるとすれば、その把捉は存在するものの創造であり、そしてわれわれの精神の把捉は存在するものへの同化です。」(『精神について』第三章)と述べているのです。同化だからこそエロス、と言いたい誘惑を抑えきれないですね。あなた色に染めて(歳が・・・)、とあほな小ネタで解説するよりも、カッシーラーのまとめを引きましょう。

「だがこの一なることが可能なのは、ただ主体と客体が、つまり認識するものと認識されるものが等しい本性をもち、それらが同一の生命的連関の分岐ないし部分をなすという場合だけである。感覚的知覚はいずれも、そういった融合と再統一のはたらきである。」(186)


 こうした同化という制約が認識論に課されていたために、ルネサンス哲学は魔術とは手が切れないでいた、ということを、カッシーラーは指摘しています。「認識とは、認識されるものになることである」とカンパネッラは規定したそうですが、そうすると魔術は、知において理論的に現れるこうした事態を実践的側面から表現し、主観と客観の同一性という説に基づいて、主観による客観支配を示すものと考えられるのだと。(213)そしてまた、たとえばジョルダーノ・ブルーノに関して言えば、人間が小宇宙、ミクロコスモスであるならば、人間の内面を動かす諸力は、宇宙的潜在力であり、だとしたら逆に、美徳や悪徳は星座のうちに現われても構わないことにもなります。行き過ぎたエロスゆえの失敗かしら、と、茶々を入れてみたくもなりますが、認識することが同化であるというのは別にエロースを持ち出すまでもなく久しい伝統だったような気もしますからやめておきましょう。

 いずれにせよ、ここで、われわれはなんとなくではありますが、自己の消尽でもない、他者の搾取でもないエネルギーのあり方のしっぽくらいに手が届きそうになったようにも思われます。それは、われわれがエロース的ジャンプによって媒介項として機能する限りにおいて、われわれには何か普遍的な運動を集約し縮限しそしてまた展開していく一つの核となることができるのかもしれない、ということ、と、とりあえずまとめておきましょう。

 

 しかしまあなんというか、非常にヘーゲル的な色合いに染められたカッシーラーの解釈を多面的に判断し批判するだけの知識はわたくしにはてんでないので、なんともいいませんが、それにしても相変わらずこうした思想史的領域での仕事は本当に綺麗だよなあ、と感心させられるカッシーラー。いやむしろ、初期ヘーゲルキリスト教研究をもっとよく研究してみるべきだった、という宿題をも感じさせられますが。そうすると、いや本当にヘーゲルはそうだったのだ、と分かるかも知れないし。。。

 でも、ああ、こういういい人だとそりゃ喧嘩には負けるよなあ、と、ふとハイデッガーカッシーラー論争を思い浮かべたりもしてしまうのです。こういう風に博く人の意見を聞いて無理なくまとめられる人というのは、だいたい喧嘩には負けます。
 とはいえ、いまや世界中の金持ちが集まって偉そうな会議をする場所としてだけ知られているダヴォスも、70年ほど前はカッシーラーハイデッガーという偉大な哲学者たちの討論の場を提供していたこともあったのだなあ、と思うと、なんとなく人心の移り変わりが寂しくはありますが。。。