遠く離れた月下界で

 あまりにうららかな陽気に満月と、実に素晴らしい一日を、例によって河原でぼうっとしながら満喫していたわけですが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。

 こういう日は、寒さによって隔てられていた自分と自然が、微妙に境界線をなくしますし、ついでに意識の境界線も緩くなる(有り体に言えば眠い)、そういうときは、たしかにここまでご紹介したような、ルネサンス哲学的な万物照応を感じないではありません。というわけで今日は、そうした方面から近代哲学の誕生をざくっと描いている坂部恵先生の「ヨーロッパ精神史入門 カロリング・ルネサンスの残光」(岩波書店、1997)をとりあげてみることにしましょう。

 この本はもうあちこちで話題になりましたから、ご存じの皆様も多いかとは思います。退官前年の講義をもとに、ということで、一話読み切り(でもないけど)短編仕立て。というか、この長さで90分もつのかしら、と、ちょっと思ったりもしたのですが、もちろん授業ではいろいろと説明や余談が入ったのかもしれません。むしろ、このくらいの長さをもとにゆっくり敷衍しながらしゃべるべきであろう、と、微妙に自らを振り返って反省してみたりもします。無理に詰め込んで喋りたがるのは、たぶん自信がないからなのでしょうね。

 それはともかく、この本の主題を、こちらもざくっと切り取ってみましょう。
 一言で言えば、それは近代哲学というかカント哲学において、中世以来の悟性と理性の序列関係に転倒が起きており、それは具体的には能動知性とよばれたものの退位が影響しており、さらに視野を広げれば、個体すなわち完全な限定性perfect definitenessからの退化として非限定なものthe indefiniteを描くのか、あるいは逆に非限定なものthe indefiniteの縮約として個体の限定性を描くのか、その布置の転換によって引き起こされた、とされています。

 坂部先生が動きのその良い解説者として紹介するのがパース。はい、いつぞやは大変お世話になりましたパース。パースは、非限定なものは完全な限定性からの退化とするオッカム主義的偏見に反駁するかたちで議論を進めます。パースの「スコラ的実在論」では、定まらないものthe unsettledが最初の状態なのです。もちろん、そこから何かが出てくることは確かで、それをさしあたり定まったものと呼んだとしても、その定まったものの両極としての確定性と決定性は近似的なものを出ないとしています。

 ここから、坂部先生は実在論唯名論の読替として、対立の争点は確定されないものと確定されたもののどちらを先と見るか、と推論します。確定されたものは特称命題、決定されたものは普遍命題であり、前者は発話者によって適用範囲が確定され、後者は解釈者によって適用範囲と真偽値が左右されるとするのがパースの論理ですから、さきほどのフレーズはここから解釈できます。(46-47)先ほど出てきた決定性と確定性、何となく分かったような気がしてスルーしてしまいそうなとこですが、こういう、ことばの端っこもポイントポイントできっちり押さえてあるところが素晴らしいですね。このへんがわたくしのような生半可な読者との違いです。

 さて、こうして、この対立は個と普遍の優先性を巡るものというよりは、個的なものをどう捉え規定するかに関わるものとされます。つまり、個的なものは非確定で普遍者や存在を分有するとみなすか、第一の直接与件として単純で確定された規定を帯びたものとするか(47)ということです。この設定枠が、本書のいちばんの基調といっていいでしょう。そして、「普遍者が個に宿る、という考え方のひとつの原型が、能動知性の個人への内属というこの考えのうちに見られることを心に留めておきましょう。」(55)というところから、能動知性は解釈されています。

 さらに、坂部先生はさらに羽を広げて、こうしたかたちで捉えられた実在論の淵源とは、同胞の認定、semblableの同定として、不確定で境界線上にたゆたう異人をも「同じ」と見る能力にあったのではなかろうか(70)と指摘しています。

 ここでひとつ指摘しておかねばならないのは、坂部先生が共通本性natura communisという、アヴィケンナがアリストテレスに則して発展させた概念に触れている点でしょう。一言で言えばそれは、種をしてその特定の種たらしめる本性を指すものです。馬にこれがあるから馬になる。馬性ってやつですね。ですからこれは感覚で捉えられる個物ではありません。馬一匹一匹を見たところでそれが直接馬性になるわけではない。かといって、馬にまつわる諸々の定義を頭に入れた知性によって捉えられる普遍性とも異なる。この妙にややこしい話は、このあとトマス・アクィナスやドゥンス・スコトゥスのこのもの性という概念を通じて展開されていくことになりますが、いまはその詳細はちょっと措きましょう。いずれにせよ、ここで覚えておくべきことは二点。「個物でも普遍者でもなく、一でも多でもなく、しかも存在において個物にも普遍者にも先だつとされる「共通本性」の考えは、反面で、無際限な述語規定をもち、汲み尽くすことのできない個物というあらたな個体概念を生み」(59)そこから小宇宙を経てライプニッツへと議論が展開していったということが第一点。そして、こうした議論の複雑さを踏まえずに縮約といった概念だけが残ったニコラウス・クザーヌスらによって、議論が若干単純化したのではないか、という指摘が第二点。たしかに、スコトゥスの潜勢態はわからんからエックハルトやクザーヌスに聞こう!と思っていた我が身としては耳の痛いところです。

 さて、第二点の反省の方はまたいずれゆっくりとやるとして、まずは第一の方。ここからは坂部先生独壇場という感がありますが、まず取りあげられるのはライプニッツ形而上学序説」から。そこでライプニッツは実体形相という考えを取りあげます。実体形相とは、ある実体をして実体たらしめるスコラの概念、なのだそうですが、ライプニッツはそれを高く評価しました。これに先だつ箇所では、ライプニッツスピノザの汎神論に対して個的実体の存在を主張し、それをドゥンス・スコトゥスのこのもの性という形相(このものとして限定する述語の束)で規定されるものとしています。さらに、個的実体の働きが世界を表出することにあるとし、すべての実体はひとつの完結した世界のようなもの、神の鏡あるいは全宇宙の鏡とした、と。(92)この辺は有名ですね。ですから、ここでの新たな個体把握とは、「神と全宇宙の生ける鏡」であり「完全な自発性をもって」その個体に起こる事柄はすべてその観念ないし存在から帰結するような、小宇宙として、個的実体を把握すること、とされるでしょう。それは、とりわけドゥンス・スコトゥスの延長上での展開としておこなわれています。

 ちなみにこの表出というのは、と坂部先生はさすがぬかりなく手際よく説明を付加しています。それは、一方について言えることと他方について言えることとの間に、恒常的法則的関係が存するということ。たとえば遠近法的投影図がその実測図を表出するようなものです。(110)つまり、表出するものと表出されるものの間に両者をともに作成する一般規則が書けるような関係があることを意味するのです。(111)
 これは、あらゆる形相に共通であって、自然的表象や動物的知覚や知性的認識を種として包括するひとつの類です。一方では、人間の知性による宇宙の認識が表出の典型でありますが、他方でその表出一般は宇宙そのものを生成する法則の力としても考えられているのです。(112)壮大ですね。確かに、そこに能動知性の匂いを感じないではありません。

 では、それはカントにいたってどう逆転されるのでしょう。

 次回はその辺を追って行きつつ、ラカンにまで話を(坂部先生に怒られつつ)広げていきましょう。いまあんまりぐずぐずしていると、こんな暖かな3月の晴天の下の満月を見逃してしまう。。。

 まあ、能動知性の位置する月上界とははるか遠くの話ではありますが。