スピノザ的構成主義?

 というわけで、前回からカッシーラーの「認識問題2-1」のスピノザ論を追ってきたのでした。そしてスピノザの最初期の草稿「短論文」では、なんとも興味深い、認識における絶対の受動性が描かれていることをみてきたのでした。そう、前回最後に引用したカッシーラーのことば、あれを「別の舞台」というフロイトのことばと重ねてみたい誘惑に駆られた人は少なくないのではないかと思うのです。

 ですが、この立場は、「短論文」の翌年くらいに書かれたであろうとされる「知性改善論」で変化を見せます。この論文では、外から降りてくる善におのれの幸福を期待せざるを得ないような神の奴隷ではなく、人間そのもののうちに、善を我がものにする手段が備わっており、その目標に至る道をしめそうという方向性への変化が見られるのです。
 ここでは、精神の事物に対する関係は、「純粋な受動」から、数学的認識の対象に代表される、知性の力と本性そのものに依存したものとなります。
 でも、ここでもちょっと面白い点が見られます。カッシーラー読み解くところのスピノザでは、特殊な個別的存在は、必然的普遍的法則の所産として理解され、その必然的な結合において理解して初めてその個別的存在の十全な観念が得られるとされています。そこまではいいのですが、定義とは性質から出発してそれを説明に用いるのではなく、法則的な順序に従って発生させることであり、真の学問的な定義はつねに発生的であるとされ、その構成規則が述べられるときであるとされているのです。
 さて、これどっかで読んだ、と思われる方もいらっしゃるかと思いますが、数学における直観主義なんかであったのではないかしら、というのがわたくしの個人的感想。
 カッシーラーの文章は1907年、ブラウアーさんが1908年に"The untrustworthiness of the principles of logic"を書いた一年前にあたりますから、そのあたりの影響関係は(底本は第三版ですから)なんとも言いようがないのですが、とりあえずほぼ同時代的ですね。カッシーラーさんがどこに発想のルーツを求めたか、そのへんもできれば調べてみないといけませんがまあちょっと今は無理。直観主義に関しては昔このへんで無謀にあがいた記憶があります。。。考えてみればどっちも直観主義の人なわけですが。いや、もちろん畑が違えば言葉の指すものも違うけど、なんか妙に被るのはなぜ。

 それはともかく、まあたとえば、図形の定義をこれこれこういうものと、抽象的にその特質を定義するより、こうやって書いたら書けるもの、とするんだ、というのがスピノザの説明。こうして図形は抽象的な類概念ではなく一義的で具体的な規定において生じてくることになりますが、形而上学もそれと同様に、諸現象を空虚な類概念に還元するのではなく、そうした存在をその自然の秩序に従ってそれを生み出す現実的な諸条件にもとづいて理解することにあるのだ、とされるようになります。
 ですから、精神は原因から結果へのこの前進にさいして事物によって外から規定され強制されるのではなく、おのれ固有の論理的法則にのみしたがう「精神的な自動装置」となります。ただし直観は依然として最高度の確実性に到達するものであり続け、特殊を普遍に包摂するだけではなくそれを一つの眼差しの元に纏め上げ、諸原理をそれらが直接機能している現場に於いてとらえ特定の一回かぎりの秩序として事象を見渡すのだとされています。

 とりあえずカッシーラーはここから先、「エチカ」や「神学・政治論」にはあまり深入りせずに議論をまとめるわけですが(まあ認識問題って枠組みだからしかたないけど)ともあれ、カッシーラーの描くスピノザは、こうしてルネサンス的な、個別的形態を不断に生み出す無限の遍在する自然観と、デカルト以降の精密科学の誕生とのあいだを揺れ動く位置におかれています。というか、あるいはメインストリームから外れているがゆえに古い伝統をそのまま残し、新しいものに微妙に乗り遅れており、それがかえっておもしろさを生んでいる、というところでしょうか。
 それにたいして、カッシーラースピノザが出した方向性は、十全な認識の対象は個物そのものではなく個物の秩序であり、個物はその一貫した結びつきと相互的な依存関係において普遍的であると同時に個別的でもあるような構造を示す、というものでした。
 ここで、普遍的であるというのはコスモスの法則がそのすべての部分を一様に貫いているからであり、個別的であるというのは、この法則が出来事の二度とない一回かぎりの系列においてのみ実現されているからです。そして法則はそもそも個々の諸現象の全体においてしか示されず、かつ法則自体は個別の項のどれに対しても包括的な上位原理です。こうして


「事物をその実体性において認識するとは、事物をその絶対に確実な数学的依存関係において認識することなのである。こうした意味では、実体は個物の「超越的」原因ではなく、「内在的」原因である。というのも、実体は、もろもろの個物の固有な必然的な連関しか表現していないからである」(95-96)


とされるようになります。ここでは、実体性とは秩序性の問題であったということをおさえておくべきでしょう。とはいえ、こうした二つの方向性は、とりわけその属性論においてすっきりと解決はしなかった、というのがカッシーラーの見解ではありますが。

 まあ、それがどうなのかはまだわたくしの判断できるところではありませんが、ともあれ、一つ考えているモデルとしては、このような「短論文」から「知性改善論」への、まあ思想史的には深化とか進化とか言われるであろう変化を、むしろ重層的なものとして扱えないかなあということです。端的に言えば、「短論文」的な絶対的受動性を完全に脱却した形での構成規則としての秩序への変化とするよりも、絶対的受動性を前提条件とした上での、次のステップとしての構成規則へ。で、それで何が生まれるの?と聞かれれば、うん、それは主体の生成論です、としかいいようがないのですが。

 ともあれ、そのなかでは、ある種の能産的自然ともいうべき自律的な宇宙と、その宇宙の中に個別存在として派生する個という考え方が含まれるはずです。もちろん、その個にとっては、能産によってうまれた諸表象との関係は、いたって受動的なものになるはずです。しかし、それは表だっては機能せず、むしろその個物を生成する普遍的な構成規則のなかに、どうにも収まりの悪い形で痕跡を残している。イメージ的にはそんな感じでしょう。そうすると、フロイトにせよユングにせよ、そして大文字の他者といったときのラカンにしても、無意識はつねに集合的(この言い方は恐ろしく大ざっぱですが)というか、そもそも個体の無意識と集合の無意識というのを分けるのもたいして意味がないと思われていた、という理由はある程度思想史的な一貫性を持って感じられてきます。まあ、別にある日突然オカルティストが精神分析家という肩書きを名乗って出現した、というわけでもなさそう、ということですね。

 とはいえ、そのへんの「収まりの悪さ」というものを、もう少しスピノザに即して考えて見なければならないはずなのですが、まあそれはまたいずれ。