雪月花

 春の宵の月に浮かれていたのが二日前、今日は今日とて霧雨のような粉雪の舞うろくでもない一日だったわけですが、皆様いかがお過ごしでしょう。

 さて、前回は坂部恵先生の「ヨーロッパ精神史入門 カロリング・ルネサンスの残光」(岩波書店、1997)をとりあげつつ、普遍からの個の析出という議論がライプニッツに至るまで広がっていることを見つつ、それがパース言うところの「オッカム的偏見」に駆逐されつつあるところを見ました。その流れで、カントにおいて悟性と理性の序列の逆転が起こる、というところまで話は来たのでしたね。

 まず用語の説明からいきましょう。坂部先生の対応表によると、以下の三つのラテン語はこういう風に訳されています。

言語 理性 悟性 感性
ラテン語 ratio intellectus sensus
ドイツ語 Vernunft Verstand Sinnlichkeit
英語 reason understanding sensasion
仏語 raison entendement sensation


 カントではこの序列関係はどうだったか、というのは、もう教科書通り。悟性は規則を介して諸現象を統一する能力であり、理性は諸悟性規則を原理のもとへと統一する能力です。理性がえらい。もちろん、理性は経験ではなく悟性に関わるしかない、という限界付けも忘れずに。(133)しかしたとえばトマス・アクィナスにとってはintellectusは真理の内側への透入ab intima penetratione veritatisから得られ、一方ratioは推論と論弁からab inquisitione et discursu得られるとされており、至高の位置を占めるのはintellectusであって、それが理性の源泉なのです。(136)

 ほな、いきなりカントがひっくり返したんかい、ということになるわけですが、そこにはちょっと前ふりがあります。
 この当時の代表的な教科書でもあったバウムガルテンによるintellectusの定義は「判明に認識する能力」。けれど、そこには有限なそれと無限なそれとの区別があります。そしてカントは神の無限なintellectusのほうを切り落としたのです。他方バウムガルテンでは、ratioは連結する能力として捉えられていました。ヴォルフ学派では算術幾何代数を代表とするアプリオリな認識はratio pureと呼ばれたのだそうですが、これが優位を得るようになったのは、個から出発すべしというオッカム的な哲学の優位に依拠するとされています。とはいえ、この移行の動機づけは、まだちょっと弱い気もするのですがいかがでしょう。オチに不満はありませんが。

 さて、ここで精神分析的にも大事なのは、ここまでも何回か取りあげてきた、表象の生産力という問題が浮上することです。それが、カントによる構想力。構想力、imaginatio、どう考えても想像的なものですが、カント業界では構想力。
 imaginatio, phantasiaの概念は、もとはといえばずーっとずーっと二次的副次的であったはずです。つまり、経験したことというか、知覚したことの再生産の作用だけに制限されていたはずなのです。しかし、その構成力を、カントは知覚そのものの構成成分として捉え直す。なによりも生産的であり、また感官の諸印象を合成し対象の形象をもたらす作用をも引き受けるのです。
 そのことによって、能動知性を頂点にもつintellectusの退位後に残った空白を埋めるのではないか、というのが、坂部先生の推理です。その傍証としては、構想力が関わるのはBildであるが、これはspeciesの血脈を引いていて、能動知性とその可知的形象species intelligibilisによる経験的認識の形成、という実在論の認識思想をなぞるものであるとされています。

 もうひとつ、しかしながらこうした逆転にもかかわらず命脈を保つ実在論的思考のひとつの例として、坂部先生は興味深いことにラカンのinformationという概念をあげています。
 この出所は、「現実原則の彼岸」です。盛期中世には能動知性の可知的形相を導入して受動知性あるいは魂に型どりを与えることを意味したことを踏まえてこのことばを使った、というのが坂部先生の解釈。ここで、連合主義以来たんに主観的な心像と見られていたイメージに新しい展開を与えたのであり、それはimaginatioを能動知性退位後の空白を埋めるのに用いたカントにたとえられる仕事と坂部先生は評価します。精神分析が関わる言語は、客観的意味を持つ以前の「誰かに差し向けられた」言語に関わるものであり、それはサンボリスムの形式に他ならないもので、分析が一定の段階まで進んだとき、ある洞察が形を取る、というラカンのその後の言明を、坂部先生はその流れから解釈するわけですね。(187)

 これくらい読み切れないとラカンは読めないよ、と、坂部先生に怒られてしまっているわけですが、ああそういえば先日も17世紀以降のフランス文学の素養がないと読めないよと、とある先生に教えて頂いたりもしてしまったわけで、年を取るほどに怒られることばっかりだわ、という今日この頃ではあります。

 さて、そうすると、問題はそれは正しいのか、イメージの優位というのはラカン的文脈にはいかにもそぐわないもので、仮にその解釈が合っていたとしても、それはラカンのごく初期の時期のテクストに見られたかすかなぶれに過ぎないのではないか、という指摘も出来ましょう。
 まあそう言っても良いんですけど言う気になれないのは理由が二つ。

 ひとつは、ラカン本人のターミノロジーの問題です。
 セミネール16巻、とくに5月14日の講義を中心に、ラカンはときどきenformerということばを使います。いちおう、グランロベールには載っていないこともない動詞ではありますが、奇妙であることには代わりありません。少なからぬ違和感があることは、校訂者のミレールがen-formとしていることからもわかります。意味はもちろん、形を作る、なのですが、それだけだとちょっと意味が分からない。また、セミネール17巻では女性の享楽に関してin-formeeという言葉を使っています。これも、普通に情報を告げるだけではなく、形相を与えるというニュアンスを足さないと意味が分からない。さらに、セミネールの第五巻第八章第一節ではシニフィエの形成(formation)と情報(information)とを並べている箇所があります。

 このなかでもとりわけ重要なのは、やはりセミネール第16巻第20章、1969年5月14日の講義。ここで、enformerということばが使われている文脈は、いたって明確で、対象aは《他者》すなわちAに形相を与えるenformerするものである、ということです。

 ですから、ここで想起されるのは、共通本性あるいはこのもの性の議論の文脈でのスコトゥスの議論と、ラカンの議論の類似性です。スコトゥスは現実の個物の数的な単一性にたいして、それとは区別された小さな実在的単一性を共通本性に帰しました。そして個物の個別性は質料ではなく存在者の究極の実在性としてのこのもの性haecceitasという個的形相におかれるのですが(58)、このよくわからん単一の並びは、わたくしにはどうしてもラカンのun unifiantとun comptantを想起させるのです。

 いや、unifiantは統合する一、つまり全体性を形成するという意味の一で、comptantは数え上げる単位としての一なんだから、comptantは数的単一性でしょ、でも実在的単一性がunifiantとは思えないし・・・と思われる方もいるかとは思うのですが、ラカンの議論の中では、comptantはそれこそtrait unaireのように、主体の中にある痕跡としての一、そして主体そのものでもあるもの、という意味で使っており、その意味では実在的単一性に近いものです。そして、さきほどの対象aとenformerの議論も、そのレベルで、つまり主体としての対象aを語るために使われているのです。(とはいえ、この問題に関する箇所では口頭の講義を筆写する際に特有の問題、具体的にはごくごく単純に大文字のAか小文字のaかという微妙な問題が直撃している箇所もあるので、ちょっと難しいところもありますが。)

 ですから、もしかすると、ランガージュの織物という普遍(ララングと言ってもいいけど)からの個別性の誕生としての主体の形成(こちらはラカンの中に確かにあるアイディアだと思います)と、それに必要なaおよびAに関する議論はスコトゥスのこのもの性あるいは実在的単一性と重ねることが出来るのではないか、というところと、今はアイディアとして考えることができるわけですね。このあたりは、ああ、またしてもスコトゥスの議論を追わねばならないのだろうか、とおもうとうんざりです。

 いや、もっともおっさん、ディスクールの普遍はない、っていってましたけどね。あれ、もちろん「議論領域」の意味で使っているとは思いますが、それくらいのかけことばを仕掛けてくるおっさんでもあります。油断がならない。


 そして二つめ(ああ一つめからだいぶ遠くなったので忘れ去られそう)、忘れてはならないのは、ラカンはときどき「根底的な想像性」ということばを使っているということです。

「主体が我々に強い、そしてそそのかすのは、分析の経験の中では自己のイマージュの発生として示されるものよりはるかに根底的な想像性imaginariteを構築することです。欠如としての主体の絶対的な特異性は、一方の性を他の性と対にして対置させていくことしかなしえない、二つのものの関係は非対称な関係である、ということの一つの翻訳なのです。我々の経験が生じさせたのはこのことです。この性的差異から生じたものはある別な構造であり、ここに我々の精神分析批判の中心があります。つまり、対象aのことです。主体がその真理を見出すごとに、我々の経験に訪れるのはこのことですが、ここで主体は見出すものをすべて対象aに変えるのです。ミダス王の触ったものがすべて金に変わったように。」(1965.6.10)


 性の非対称性(山本山かい!)、そこから生まれる欠如としての主体の絶対的な特異性、そこから対象aが生じます。そして主体はそれ以降、見出すものをすべて対象aに変える。それが、根底的な想像性、ということでしょう。ここには、非対称性から来る差異を主体自身の特異性に変え、そしてその特異性がある種の普遍を創り出すように世界を対象a化していく、そんな過程が捉えられています。このような運動を、初期のラカンはイマージュということばでしか語れなかったのだとしたら?

 まあそんなわけで、坂部先生ご指摘の箇所は、思った以上に難しい射程を孕んでいます。それは、ラカンの中に、特にララングという理論に流れる、坂部先生風に言えば普遍実在論的な傾向を見つけ出す、ということから来るものでもあるのでしょう。それはまた、何かが同じである、と思うことそれ自体の神秘でもあります。他者論じゃなくて同胞論。それは、鏡像段階のような一見「おなじ」に関して分かりやすい理論を持っていたはずのラカンにおいてさえ、じわじわと浸食し、理論を後退させます。鏡像からそれを承認する《他者》へ、あるいはそのなかに自らのみを置く理由となるtrait unaire、それがさらに対象aという構成を経ることになり、上記のようなところまで議論が展開されていくようになるわけですから。同一なもの、les memes、もしそれが単一なものuniqueである、というところまで。