階段落ち

「形態の遊びやアナモルフォーズを始めとする手法へのバロック的回帰は、芸術的探求の真の意味を再度確立するための努力である、と私は思います。芸術家たちは線の特性の発見に没頭し、どう考えてよいか解らないところにあるもの、つまりまさしくどこにもないものを出現せしめようと努めたのです。(Lacan, seminaire 7, 162)


 さて、前回まで読んでいた坂部先生のお話にもあるように、カントの構想力をもって、表象には再生力のみならず、産出力がある、という考え方が見られるようになった、とされています。つまるところ、記憶していた感覚印象の再生とその総合という、コラ職人的な立場から、いちおうコンテンツホルダーといえる身分へと変化するのだと。デリダもまたそれを、ここで書いたように、自然が産出力を失うと同時に詩人がその任を担うようになる動きとして描いています。

 まあそれはそれとして、フロイト以来のおきまりとして、哲学が云々言い出すことはつねに芸術によって先行されている、と相場が決まっています。ラカンなら、冒頭にも引用したように、どこにもないものを出現させる試みとしてのバロック。そして、ドゥルーズがそのライプニッツ論(「襞」)でその書名をあげていたイヴ・ボヌフォワバロックの幻惑 : 1630年のローマ」(島崎ひとみ訳、 国書刊行会、1998)では、その動きがさらに仔細に描かれています。ということで、今回はそのあたり。

 そのあたり、といったは良いものの、この本を読みながら哀しかったのは固有名詞のかなりの部分が分からなかった、という悲惨な事実を発見したこと。ああ岡田先生の授業とかしっかり受けておけばよかった、と遠い昔を一瞬振り返ったりもするのですが、それはまあ仕方ありません。ネットのいいところは、固有名詞の羅列を肉付けしてフォローするかれらの実際の作品の画像をちゃっちゃと見ることができるところでありましょう。ということで、今回は画像へのリンクも交えつつお送りしてみたいと思います。
 とりあえずボヌフォアさん。ご本業は詩人。コレージュ・ド・フランス詩学教授という肩書きも持っていましたから、フランス詩壇最高の存在の一人であろうことは察しがつくのですが、あいにくとんと文学には疎い身、詳しいことは失礼ながら存じ上げません。もっとも、数多くの理論的、評論的な作品は日本語にも訳されていて親しみのあるところでもあります。今回の本も、1630年、ローマ、というかなりの限定を付けながら、バロックの絵画の本質に迫る絵画論、という風に言っておくと、まずは紹介代わりということになりましょう。

 ほな、バロックとはなんじゃいな、ということになりますが、ボヌフォアさんはこれをこう定義します。


「言うなれば「バロック」意識は幻惑を(そのようなものとして)受け入れ、これを基本的な素材とするのであり、この素材をもって虚無を甘受するのではなく、いくばくかなりとも存在感を生み出すことが肝要なのだ。幻惑からのバロック的(ベルリーニ的)覚醒とは従って、瞥見された虚無が現前へと再転換する、すでにして肯定的な瞬間である。われわれは確かにあの仮面でしかないが、仮面としての仮面は現実のものであり得るのだ。なぜなら神は虚無を用いて存在を作るから。必要なのは勇気や徳などではまったくなくて、信仰なのだ。」(197)

 まあそういうわけで、冒頭のラカンの引用もおわかりいただけたかと思うのですが、まず、虚無を現前へと再転換する、そのこころみのなかに幻惑を位置づけ、その幻惑を持って虚無から現前への転換を可能にする素材として扱うこと、それがボヌフォアさんの言うバロックの真骨頂ということになります。

 さて、ではその「虚無」がなにゆえに生じたのか、というところから、話ははじめなければいけません。ということは、その前段階であるルネサンス絵画を考えなければいけないということです。

 ボヌフォアさんによれば、ルネサンス絵画とは、数と音楽的調和を呈する天球群とにしたがって構成され、かつ人間というミクロコスモスとも細部にわたる類似によって通じ合う宇宙の形相に対する憧れによって成立していたのだとされています。
 そして、実質には階梯があります。ランキングって奴ですね。そのなかでも高貴な被造物はほとんど神であり、それが可視界から姿を消すことなく我々の感覚を養うのですから、これは善と美が同一であるということになります(32-33)。このなかでも、いちばん高貴な被造物のランク上位に天球があった、ということは、近代人としてはなかなか納得がしづらい所ですが事実です。

 しかし物質は天球を含めただの物質です。ご存じのように。あばただらけの石。そうすると、ほとんど神にちかく、そしてほとんど神の現実態として、われわれの可視の範囲内でキラキラ星を歌っていたお星様たちは、没落を余儀なくされます。それは、物象の形体の奥底にひとつの完全さの可能性、神の現前、そしてわれわれが神の本質を我有することの可能性が失わた、ということなのです。それは結構決定的な危機で、つまるところ、感覚与件を用いて神聖なるものを表示することが務めであった諸芸術が、のきなみ危機に陥ったと言うことなのです。そして、芸術家たちはいつものように、その危機を鋭く察知する、その反応の中に、バロック絵画は位置づけられるべきであろう、と。(33-34)



(えくぼがあばたであったことがばれてしまったショックを描いた、チゴーリ「聖母被昇天図(1612))



 そのショックの以前の芸術家たちの営みはこういうものでした。

「十六世紀の初めには物象オブジェとは、少なくとも何人かの画家たちには、英知的なものの潜在形と認められていた。従ってわれわれの生活自体の中にひとつの秩序が顔をのぞかせ法則の音楽が響く様を明かす、こうした物象の像を完成するために、芸術家たる者は物象についての骨の折れる研究に身を投じなければならなかった。・・・しかしアンニバーレ・カルラッチに至り、実体験と画像イマージュとの間の絆が断ち切られる。」(27-28)


 なるほど、では、そのカルラッチ(Annibale Carracci, 1560-1609)さんの身の上には何が起きていたのでしょうか。それは、叡智界の階梯のなかに取り込まれてはいない人間的時間が誕生したことだ、とボヌフォアさんは言います。そういえば聞こえは良いですが、つまるところ、ミクロコスモスとしての人間の崩壊であり、有り体に言えば迷子です。それが、虚無の誕生ということでもあるのでしょう。
 で、そんななかでカルラッチさんがどうしたのか、ということを、ボヌフォアさんはこう描きます。

 「カルラッチが強調したがっていると思われるのは、彼が<幻像シミュラークル>を積み上げているのだということだ。穹窿の装飾の目の密な網の中に<幻像>を集める時彼が実際に構築する統一とは、現実界の統一ではなく、単に近代人がわがものとする場所の統一−自己の気がかりの、自己の主観性の、自己の夢の統一−なのだと彼は言っているのだ。それらの形体フォルムは合理的だが、この理はわれわれの内にしかなく−たぶんひとつの夢でしかない。」(26)



(ファルネーゼ宮殿天井画)

 それは、「宇宙の内にも人間の内にもひとつの秩序が存在するという考えそのものの清算」(32)された時代が訪れた、ということであり、調和や秩序の現前を夢想することは出来るが、具体的な体験の中では知覚し得ない、という意識の訪れでもあります。カルラッチさんがその中で描くのは「聖なるものが内在する、われわれの国ではない国」であり「そしてこんな風に再興された合理的な現実の写実主義は、実は夢と郷愁でできているにすぎない。」と、ボヌフォアさんはいいます。

 それは同時に、これまで秩序の中の(多分一番下の)ランクの中に位置づけられていた諸々の質料が、それ自体として(まさに物自体)出現して来るという、不気味な瞬間でもあります。ボヌフォアさんは、その不気味なものが出現してくる瞬間を、カラヴァッジオ(ミケランジェロ・メリージMichelangelo Merisi, 1573-1610)さんの絵画の中に見て取ります。

「彼にとっての現実界とは確かにひとつの超越性ではああるが、それは否定的な超越性、つまり、質料に何らかの存在理由を見出そうとするわれわれの空しい努力に対抗する暗い力を備えた、質料の超越性なのだ。だから同じように超越的ないずれかの神の恩寵だけが、この暗い淵の底にあえて踏み入ることができる。」(31)


(聖マタイの召命)





 こうした虚無、そして物質そのものの顕在化。こうした危機をどのように回避するのか。そのために見出された回避策が、内面化である、とボヌフォアさんはいいます。

「強力な地上の約束の中にひとつの改宗が起こり、この虚無は目眩めく内面性であることが明らかになる。」(43)


 内面性。なんじゃらほいなとそこに飛びかかる前に、まずはその誕生に至るまでの歴史をボヌフォアさんにならってまとめ直しましょう。

 ルネサンス芸術において、たとえばフィレンツェの革新者たちは、画面前景の人体の量感と、遠近法で描き出す術を知っていた周囲の空間との融合に成功するのに一世紀を要した、のだそうです。なぜか?すなわちそれは、自己の人間としての現実性とは空間的なものではなく霊的で内面的なものだという感情に取り憑かれていたからだとボヌフォアさんはいいます。
 遠近法やそのデッサンへの気配りに没頭しているかぎり、物象を外から見ているのであり、物象を空無でしかない外皮へと還元することになります。その結果、本性的には決して非在ではない木々や丘が外在化され、影像として非在と化すことになってしまう。こうして、ルネサンスのドラマとは自己の理、つまり自分で発見した理屈によって生まれてしまった、こうした被害から、聖母像を救おうと努めることにあったとボヌフォアさんはいいます。たしかに、聖母が空無でしかない外皮に還元、というのはいかにもまずい。しかし結局、レオナルドやラファエロにいたり、人物像と周囲の画像との間の連続性は確立されてしまいます。

 そのことは、同時に何かしら不安な感じを引き起こします。たとえば、ラファエルロにおいては、連続性が内部から空虚に侵されていくのがみられ、その結果画家はこの無の劇場を現前で取り戻そうと、シーニュ記号をどんどん増やしていくのだ、とボヌフォアさん。

「遠近法の求めるがままに、物象という用語によって思考する者は、亡霊にしか出会わない。・・・現実界の比例関係のこの仮定の上での完全さは、いかなる偶然をも、言い換えればいかなる個別的実存をも、排除しなければ喚起し得ぬものなのだ。」(44)


 さて、こうした流れの後に、いよいよバロック的なるものの成立が、ベルニーニとともに訪れます。次回は、その展開を、ボヌフォアさんにならって手短に概観していくことにしましょう。