法悦の詩、詩人の魂

 さて、前回は、イヴ・ボヌフォワバロックの幻惑 : 1630年のローマ」(島崎ひとみ訳、 国書刊行会、1998)を取りあげて、カント的な「表象の生産者」としての主体の誕生する前に、まずはルネサンス的なミクロコスモスの崩壊があり、そこで生じる虚無と、そして不気味なものとして登場してくる質料があり、そうした流れの上で、内面性とでもいうべきものの誕生、というか、虚無の転回としての内面性の誕生が予告されたところまでで、話を終えたのでした。それが、バロックである、と。

 ルネサンスが外面性の罠の中で認識を追究したのち、マニエリスムの疑惑や悔恨やパニック、カラヴァッジオの物象の虚無についての教えののち再開された信仰運動、としてボヌフォアさんはベルニーニの芸術およびバロックを定義します。それは、ここといまの、絶対的な、唯一の個人に定められたあがないの体験の鍵を見出すことでもあると。

「プレザンスによって空間を収束させ、人間的持続を展開し、しかし同時に、神聖なるものの統一の中で螺旋状にこの持続を曲げてゆくあの信仰の、芸術の次元での証人たること」(48)

 そしてこうした信仰こそバロックであり、それは虚無を現前に変質させること、つまり刹那主義的な移ろいの痛感ではなく、バロック現実界を消費するのであるとボヌフォアさんは論じます。その消費とは、深く根ざすことであり、自己の対象にぴったりと結びつくがゆえに対象の概観や総体性を見ず、対象とともに永遠なる物のうちにあるのだと。(49)

 このあたりは、表現が一部極端にポエティックで、よく分からないところもあるのですが、とりあえずこの結論部分を踏まえると、何となく溯及的に意味が分かってくるようにも思えます。


「私は次のように結論する。バロックとはだまし絵ではなく、幻惑イリュージョンによる存在体験である、そしてバロックの雄弁術は、この幻惑を創造し、かくして不可視なるものに至らんとする、まさにその瞬間に、この幻惑を指し示すのだ。それはひとつの修辞法ではあるが、言うなれば「否定的」な修辞法であり、深い現実を生命として動く心像−実にこれこそが「真の生」−の、外面性の鼓動なのである。」(60)


 さて、ベルニーニさんの絵画の紹介、ということになると、やはりこれをあげないわけにはいかないでしょう。ラカンセミネール第20巻、アンコールの表紙にもなっているこの一枚。「聖女テレサの法悦」です。このテレサさんは、そういえば坂部先生がライプニッツとの関係で重要な位置を占める人物として取りあげた、あのアビラのテレサさんですね。



 このようなシフトは、その後にいくつかの流れを生み出します。たとえば、ピエトロ(Pietro da Cortona,1596-1669)から。そこでは、精神の諸々の義務が人間の内にあってもはや拘束的でなくなったがゆえに、人間が自己の感覚の促すことしか聞かずに済むようになり、そこで生じた人間と自己自身との親密さ、直接的なるものが描かれています(88)。それは、対象から可能な限り引き離されることの少ない、無媒介な内的ヴィジョンであり、事物の肉体的プレザンス、そしてその所有でもあります。(90)
 ですが、ボヌフォアさんによれば、それはわれわれの個人的意識を自画から排除した感覚の統一、であり真の統一ではないピエトロはバロックではなく、やはりギリシア的コスモスと形相の形而上学の廃墟から現れたものであるとされています。(91)


神の摂理(バルベリーニ宮殿大広間天井画)


 このほかにも、たとえばフランチェスコ・ボッロミーニ(Francesco Borromini,1599-1667)とグノーシス(94)という詩的もなされています。


(サン・カッロ・アッレ・クアトロ・フォンターネ聖堂天蓋)

 ですが、中でも大きな紙幅を費やされているのがプッサン(Nicolas Poussin, 1594-1665)です。

 ボヌフォアさんの論じるプッサンは、いたって双極的なかたです。いやこの場合の双極的は躁鬱という意味ではなくてですね、官能性と自意識、と。
 どういうことでしょう?まず、一方では、自己固有の形体に執着している私は、感覚が求めるようには現実界の中へと吸収されていく覚悟が付けられない。つまり、ピエトロのような官能性が見られながら、そこに浸りきることはできない。
 こうした意識を持つ人間は、自己を、完全に限定された様相と能力を持つ一種の客体として認識するがゆえに、当然のことながら、現実界とは果てしないものだというふうに思われます。なんとなくパスカルっぽいニュアンスですが、まあ多分ボヌフォアさんもそのつもりで書いていらっしゃると思います。
 その結果、時々刻々の不安や葛藤が、そしてそこからの癒しとしての夢が生じてきます。そこにあるのは、現実の豊かさと人間の限界についての相反する直観です。たとえば、一方で「聖エラスムスの殉教」や「大ヤコブに現れた聖母」では「神の現前との出会いは法悦の瞬間ではなく、存在の全体を通してきわめて肉体的な反響が聞かれる、この上なく官能的な感覚の完全に物理的な瞬間でしかない。」(124)のですから。

 しかし「聖櫃の奇跡」以降、プッサンは感覚的与件や物象を解体し、ついでそれらを本来の可能性にしたがって展開するよう努め、意識が駆使する抽象的比率を与件に浸透させこれを心的現実に変化させることで、おのれの限界に突き当たることなく与件を所有するようになる、とボヌフォアさんはいいます。なんやらようわからん話ですが、ようするに、ここではじめて、知覚与件は精神となり、画家もまた精神となり、世界を享楽し続けながら自己の有限性を免れるのだ、ということです。(140-141)

 それゆえにこの絵画は最初の近代絵画であり、「何らかの神や価値の内にではなく自己自身の内に、己の無限、己の聖性、己の目的を有する最初のタブローである」(141)とボヌフォアさんは結論します。



(「聖櫃の奇跡」)

 ということで、今回はいたってレポート・テイストでお送りしてきたわけですが(学生がこのレベルで書いてきたら確実に落とす、かも。いやしないかも。)しかしまあ、ともあれ思想史的にはこういう内面性の空間の誕生というのは、やっぱりいろいろな角度からきっちりお勉強せねばならないことでもありますから、苦手といってほっぽりだすまえにベタにお勉強すべきでありまして、と言い訳をしておきましょう。

 ともあれ、重要なのは、虚無の現前への再転換、というかたちで強烈に肯定的な瞬間として描かれた瞬間、そしてその信仰にも近い強靱さが、内面性の誕生の瞬間として描かれているということでしょう。虚無でしかない仮面を、しかし仮面としての仮面は現実のものであり得るのだ、と肯定し直すことは、たしかに虚無を用いて存在を作る神と並行しており、そしてその神への信仰なくしては成立し得ないものでもあります。ですから、それが虚無という、否定的なものを背景に置きながら、なおかつそこで描き出される心像こそが、もっとも深い生命の躍動を描きうるのだと。

 そして、ボヌフォアさんによれば、それはプッサンにいたって、意識的に抽象的な諸法則を適用された感覚的諸与件や物象は、心的現実の延長なのだ、とすることで、近代的自我の中に止揚されることになります。こうして、ボヌフォアさんは、プッサンの「詩人の霊感」を、官能と理性の完璧な均衡の瞬間として称揚するのです。