無劣化コピー

 さて、そんなわけで、「はじめに言があった」

 ロゴスは神と等しい神の子であり、そのロゴスが肉をとって我々のうちに住みたもうた。このヨハネ伝の序文により、受肉のイエス、神と同時に人であるイエス・キリストが表現されている、と山田先生はおっしゃいます(24-25)。なるほど、言葉というのは神の子であって、それが物質としての肉に宿る。なんとなくわからいでもない話です。

 では、この結びつき方はどうなるのか。それがトマス・アクィナスのテーマです。ついでに言うと、サントームというのも、現実的なもの、象徴的な物、想像的なものの三つがどう結ばれるのか、父の名というのはその結びつきの理想型なのか、あるいはさらに四つ目の環が必要な症例もあるのか、ちゅうかその結び目のあり方こそが症状でありかつ人間のあり方なのか?ということが問題だったわけですから、ふむふむ、結び目の人たち、ということで、サントームと聖トマスを掛けるのは、そりゃありだ、という気がしてきますね。

 それはさておき、ロゴスがお肉に住み着いた、といっても、その住み着き具合がどんなものか、色々なことが考えられます。たとえば、グノーシス派のいうように、大いなる光の神から分かたれて肉の中に閉じ込められた、というような見方もあり得ましょう。ほんだらまあそこから解き放たれることで人類を補完しちゃおう、みたいな発想も出てきます。あるいは、神の子ってのは神様の次、ランク的には二番目の神様でしょ、という位階を考える人もいて、これはある意味で流出説を唱える新プラトン主義的な発想といえるかもしれません。うん、流出するときは劣化コピーでちょっと質が落ちる、というのは、アダルトビデオの定番です。まあそうはいっても、DVD時代になると違ってくるんですけどね。
 でもそうじゃなくて、父と子と聖霊は、その本質(ウーシア、エッセンチア)においてひとつである、でも個的な存在(ペルソナ、ヒポスタシス)としては三つ、父と子と聖霊と区別される。三位一体説はこうしてひとつの方向性でまとまります。うむ。ややこしい。でも、山田先生の指摘によると、神そのもののなかにダイナミズムがあり、その動きは父なる神が自分自身を対象化すること、自分自身を見つめることで言を生むのであり、父と言はその意味で同じ次元にある(74)のだそうです。これはフィヒテシェリング(たぶんヘーゲルも)ほかドイツ観念論のひとつのスタイルを理解する上ではどうにもこうにも重要な前提のように思われてきます。それにしてもえらくナルシスティックというか、自分捜しの神様の気もしますが。

 この時点でも既にだいぶややこしい話になっていますが、ここにイエス・キリストの話が入ってくると、もう一ひねりややこしくなります。なるほど御言葉が受肉したことで、キリストは人性と神性をもっていることになるわけですから、じゃあペルソナとしても人モードと神モードの二重人格になるの?という疑問がひとつ。逆に、それを無理から否定しようとすると、いやいやあくまで神様ですから、ということになってしまい、結果神様がお肉にとじこめられてさ、というグノーシス派に近づくことになります。そんなわけで、キリスト教のドグマでは二つの本質dyo physeis(duae naturae)を持ち、ひとつのペルソナmia hypostasis(una persona)を持つとされることになりました。つまるところ、三位一体論では神としてはひとつ、ペルソナとしては三つであり、受肉論では本質は二つペルソナはひとつということになります(78)。うん、ねじくれてますね。

 でもなんでそんなややこしいことに?というと、それはたとえばグノーシスのように、ロゴスのペルソナはひとつであり、ロゴスが仮の姿として肉をまとっていることにすると、それでは受肉の救済的な意味、すなわち肉をも救済するという意味が消えてしまうからだとされています(79-80)。そこでダマスケヌスはイエス・キリストはヒポスタシスとしては言とまったくひとつであり、そのヒポスタシスが二つの本性ピュシスをもつ、そして二つの本性はイエス・キリストというひとつのヒポスタシスにおいてひとつになる、という位格的合一(unio hypostatica)を唱えます(81)。ここまでが、トマス・アクィナス登場前夜。

 山田先生のおっしゃるようでは、トマスの独創性は神性と人性の二つがそれぞれ別でありながらひとつになり、同一のヒポスタシス、同一のペルソナである、という難問にたいし、受容asumereという思想を提唱したことにあるのだそうです。
 asumereの語義は、自分adに取るsumereというものです。この場合、自分にあたるのは言のペルソナ。それが人間本性を自分に取り、受肉した言としてのキリストになります(88)。でも、じゃあ受容された人間本性は言そのものになってしまわないか?という疑念もでてきます。asumereは消化吸収ですから、言葉に食べられちゃうお肉、というところでしょうか。食い意地の張った奴です。

 トマスはそれに対して、言のペルソナが人間本性をassumereするのは取り込むことではなく反対に言が自分を人間本性に伝えるcommunicareことであるといいます。何を伝えるのかというと、それは言の有しているペルソナ的存在esse personaleを人間本性に伝えるのだと。こうして、キリストは本性の次元では神であり人間でありながら、その存在esseにおいてはひとつになります。存在においてひとつとは、ヒポスタシスないしペルソナにおいてひとつであるという意味です。すなわち、人間本性に自分の存在を与えることによって人間本性を少しも変えることなくこれを神化する、もっと言ってしまえば、与えることによって自分のものとするのです。

 でもでも、それじゃあ結局、イエスというのは、人性を受容するのではなく人性を有する一個の人間として創造された、ということにならないか、という疑問が生まれます。被造物としての人間は神ではありません。ならば神性と人性の合一した一個の神ペルソナとかややこしい話もなくなって、人間キリストを神から区別したアリウス派と同じ結論になるだろうと(89-90)。

 この疑問の解決のためには伝えるcommunicareとdare[与える、ちなみにこれ、dataというかdatumの語源でもあります]の区別を明確にせねばなりません。なるほど、創造とは基本的には、神が本性にその存在を与えることであり、いかなる本性も、それ自体としては普遍性のままであって、この世界に存在するという意味では実存しません。その普遍性にesseを与え、この世界に実存existereする個的存在者たらしめるのは神です。しかしキリストの有する人間本性が、言のペルソナからその存在を与えられて人間キリストとして実存すると言われる場合、それは神から存在を与えられるのではなく、存在をcommunicareされるのです。これは伝えるというだけでなく、共有せしめるという意味を持つものです。つまり神のペルソナとそのesseを共有する。他方、普通の人間が創造される場合は神のesseをcommunicareされるのではなく、被造的本性の分に応じた有限なesseを与えられて実存することになっています(90-91)。

 ここで面白いのは、伝える、コミュニケートするとは共有するということであり、共有されたものとはつまりは無劣化なコピー、というか無劣化である以上コピーもオリジナルもない同じものだよ、というところでしょう。他方で、与えられたもののほうには、有限性の制約がかかっています。つまり劣化コピーです。

 ここにあるのは、ある意味でいっぷう変わった贈与論です。留保無く贈与しようとしても、そこには劣化というか減価償却というか、なにかしらロスがある。だとするなら、むしろ共有してしまえばいい。「相手を自分のものにするということは、基本的に、相手をとりこむことじゃなくて、実は自分を与えることによって、自分のものにするんだ、という考えです。」(103)と山田先生はおっしゃいます。言葉を与えることで、自分と相手は同じになり、そして相手はある意味で自分のものになる。これは、おそらくガブリエル・タルドの所有と模倣という概念を考える上でも重要なものです。お暇な方はこの辺のネタをどうぞ。まあ考えようによっては、子種をまいて与えておのれのコピーとしての子どもを作る、みたいな話でもありますが、ん、ちゅうかみたいじゃなくてそもそも同じかしらん?まあ遺伝子が御言葉であるというとインテリジェント・デザインみたいですけど。。。

 ともあれ、この七面倒くさいややこしい理屈、なぜ必要だったのかしら、と考えると、山田先生のお話の中では、使徒伝承traditio apostolicaというところにあるのかもしれません。使徒達の経験では、あの人は確かに人間だった、でも神様だった。神の子と言っていたけどあの人が神様でもあった。でも人間だった。このややこしくも複雑な出会いと、そこに生まれた強い気持ちをそのまま形にしようという悪戦苦闘が、神と子と聖霊は同じ本質でなければいけないという三位一体説と、神と人はイエスという一人の人間の中に結ばれてなくてはならないという位格的合一と、このふたつのねじくれた解決案につながっている、のかもしれませんが、その辺は信者ならぬ身としては何とも言いようがありません。

 キリストの人間本性はあくまで神の本性とは区別された被造的有限本性であり、実存のあり方において有限的な限定を受け、その側面から見れば普通の人間と同じです。でも、それを実存せしめているesseは神と共有するesseであり、その側面から見れば普通の人間ではありません。トマスはそれを「真の人間である。しかし只の人間ではないverus homo sed non purus」と説明していたと言います(91-92)。あいつただもんじゃねえ、ってことですね。これがどうにもこうにもアガルマっぽい言い回しなのも面白いところですが。

 さて、こうしたトマス的解決案が、ラカンのサントーム論に直接光を当てることに役立てるかといえば、どうも今のところわたくしの力ではまだ無理そうです。ですが、ともあれ安易にどっちかの一元論に流れることなく結び目を考察し続けること、という意味で、ラカンが聖トマスに先人を見いだしたと言うことも、ある、かしら、うん、ちょっと分からないけど、というところでしょうか。


「人間存在の単一性への回帰。身体の形相としての魂への回帰。トマス・アクィナスアリストテレスを強力な支持材料にすることへの回帰。こんなような宣言を大々的にぶっても全く無駄です。この心身の分断はきっぱりと行われてしまいました。」(seminaire II, p.93)

 続くパッセージの中で、ラカンはこれがフロイトの出発点でもあったとしています。もちろん、サントーム論をここであげられるような「回帰」と見なすことは出来ないでしょう。しかし、ラカンがそこでなにかの結び目について思いを巡らしていたことも確かです。それが『初めに言葉ありき』に「ちょっとしたことを付け加えておりますよ。」というものだったのかどうか、それはまだ定かではありませんが。

 まあ、老人の紐遊びって悪評高かったんですけどね。